【日記】キーボードの掃除

 年末年始だからというわけではないが、キーボードの掃除をした。HHKBは、さすが掃除がしやすい。キーを嵌め込むシリンダーが、それ自体もキーであるかのような、丁寧なつくりをしている。こんなマニアックなこと言っても誰にも伝わらない。とにかく、ものを書くという願掛けのようなものもこもっているので、その気分を大事にしたいと思う。
 いくつか呟きを残したが、最近、書いてどこかに発表するということにおいて、作品の質は最上価値ではないのではないか、という気がしてきた。
 ある意味ではそうなのかもしれないが。
『百年の孤独』の、一番長老であるブエンディアだったと思うが、彼が晩年行っていた、彫金の仕事を延々としている姿が印象的だった。ああいった像が、自分の、創作における理想のように思い描いていた部分がある。何物にも邪魔されず、こんこんと何かを作り続けるといった。
 だが、そうして世の中と没交渉になることは、作品の価値を、ある面では損なっている部分があるのではないか、と考え始めた。
 一つはビートルズを聞いていた時。ビートルズは、やれポールが作曲した、ジョンが作曲した、という後年の分析やメンバーの言葉がある。確か、ほとんどの楽曲が、レノン&マッカートニーという名義になっていたから、クレジット自体で作曲者を判断することはできない。
 しかし、しかしというのはこの曲はジョンが作曲したものだ、というクレジットとは別の了解のことを指しているのだが、作曲はその人がやった。そして皆が演奏した。いわば作曲が精神性で、演奏された実際の楽曲が受肉というわけだが、そのように分かれるものではない。「ドライブ・マイ・カー」を聞いていたのだが、あの圧倒的な印象をもたらすコーラス、ギチギチに音が詰まった和音を生み出す際に、それぞれのコーラスの腕力を考慮に入れていないわけがない。あの音が生み出せるから、あの曲を書いたので、おそらく逆ではない。あるいは、曲作りの場面を思い浮かべて、ドラフトの段階で皆で合わせて、曲を修正して、最も盛り上がる形を選ぶ、といった風に作っていたと思う。
 そのとき、誰が作った、というのもあるかもしれないが、そのメンバーの客観性、外部の視点があの作品を作ったので、作曲者は、いわばそれが結晶する種を置いただけである。そう考えると、あの四人、しかも中心的にかかわったエンジニアなども含めればもっとだ、その多数性によって素晴らしい曲群が出来上がったと考えていい。
 では、それは一人の人間が書くことで構成されている小説や文学といったものでは、起き得ないことなのか?
 それを、その曲を聞きながら、ウクレレのレッスンに行く道すがらで考えていた。結論から言えば、小説にも、小説にこそ多数性はある。作品の、価値の基準であるといっても良いと思う。では、それはどうして生まれるのか。
 一つには、事後的な感想、あるいはドラフトを誰かに見せてフィードバックをもらうといったような形で、他者と関わるというやり方である。それだと、名編集者とか、イメージしやすい関係性のもと、その他者性を担保しているのがわかる。
 でも、僕はそこが本質的な他者性ではないと思いたい。一人の人間の中に、すでに他者が存在していて、その一つが「自分によって書かれたもの」である。書かれたものは、再び読む時には、他人になっている。書くというループ自体が、自己の中の他者性の交流地点となるので、一人で書いている時にも、複数性のもたらす効果が既に現れるのではないか。

 そうした時に、その他者性にあふれている作品というのは、価値を持つわけだが、それというのは、リンゴスターの唐突なフレージングが、曲の拍をおかしくしたとしても放っておいてそのままコンテンツの中に盛り込んでしまうみたいに、技術的に彫琢されたものばかりではない見た目をしていると思う。なので、「完璧なものを仕上げたい」という時に志向するような方向性とは、別のことが起こっているのではないか、という予想を立てた。

 それから、さらにその道すがらで、とあるその地域でトップレベルで有名になっているラーメン屋の前を差し掛かった時に、張り紙がしてあり、「既に予約のお客様で終日埋まっています」というものがあった。
 要は、そのラーメン屋に連絡もせず足を運んでも、ラーメンを食わせてくれないのである。その店は本当に人気があって、老舗だし単に実力なのかもしれないが、マーケティングの力もあるのかもしれない。仮にそのラーメンの味が最上であり、結果としてそのような事態になったのかもしれない。だが、その結果として、気軽に足を運んでも食うことのできないラーメン屋になったということは、これは価値なのだろうか? 味としては、価値は最上なのかもしれない。しかし、何というか、店の敷居は天井まで高まった。別の意味では、価値を損なったのかもしれないと思った。
 もしかしたら、その店が、天井知らずにラーメンを旨くする、あるいは集客のための努力を最大限にまで行ったとして、そこの店主はそれを求めていたのかもしれないが、そこそこまずくすることによって、気軽に足を運べる程度で実に美味なラーメンを提供することも出来たのではないか、と考えた。

 何かを磨いて、天井知らずに価値を高めることが、今まで、小説を書く上で目指すべきことだと考えていたのだが、それより別に考えなければならないことがあるのではないかと、ビートルズとラーメン屋からヒントを得て考えていた。

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