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再読⑤:嫌われる勇気

この最終章は、読めば読むほど勇気が湧いてきます。
心に響いたところが多すぎて、引用が多くてすみません。
ぜひ、人生の目標が見えなくて辛いなーとか人生悩んでいる方に読んでもらえたら、何か感じることはあるかもしれません。

普通である事の勇気

哲人:そこでアドラー心理学が大切にしているのが、「普通である事の勇気」という言葉です。
中略
哲人:普通を拒絶するあなたは、おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義ととらえているのでしょう。普通であることは、無能なのではありません。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです。

嫌われる勇気 P.260 ~261

この話をされた青年は、
『「普通」を受け入れることは、怠惰な自分を肯定することにつながる、しょせん自分はここまでだ、これでいいのだ、という事になる。人生には高邁な目標が必要だ!』と哲人に食ってかかります。

この点については、正直私も悩むっていうか、どうしたらいいのかわからなくなっていたポイントでもありました。
と言いますのは、若き頃の私は、希望に満ちていました。食品の商品開発をしたくて、ひたすら就活をしていました。そこでなんとかパンメーカーに入れてもらえました。一生働くとかは考えられなかったけれど、あの時の自分は、
「世の中に沢山売られる食品の開発をやりたい!」「みんなの思い出になるような商品を作りたい!」と真剣に思っていました。
自分なりの高邁な目標に向かって、転職もして、さらに「食べる人が喜んでくれたらいいな!」とひた走ってきたのが、35歳くらいまでの私です。
ですが、高邁な目標も大体達成すると、仕事もパターン化され新鮮味もない。加えて子育てで毎日が目の回るような忙しさ。疲弊しきって、身体もボロボロになった私は、自分がどこに向かって良いのかわからなくなりました。
それから、東京→石川へUターンした後も、自分が次に何をしていいかわからなくて、次の自分の魂を震わすような高邁な目標が見つけられなくて、迷い続けていました。人生というものに参加できていない。そんな感じです。

正直今もそのままです。

なので、青年と同じように、「で、何が正解?どうしたらいい私?」と前のめりで読みすすめました。

人生は登山ではない

哲人:あなたの高邁なる目標というのは、ちょうど登山で山頂を目指すよう  なイメージなのでしょう。
青年:ええそうです。人は、わたしは、山の頂きをめざすのです!
哲人:しかし、もしも人生が山頂に辿りつくまでの登山だとしたら、人生の大半は「途上」になってしまいます。つまり、山を踏破したところから「ほんとうの人生」がはじまるのであって、そこに至るまでの道のりは「仮のわたし」による「仮の人生」なのだと。

嫌われる勇気 P.263 

なので、私は登山する価値のある山(目標)を見つけようと必死だったのかもしれません。
資格をやたら取ろうとしてみたり、大学に入りなおそうかな?と思ってみたり、教員免許とかって取れないかな?とか。
「どこの山も登らない自分」=「今の自分」が認められなかったのです。

哲人は、『人生を登山のように考えている人は、自らの生を「線」としてとらえている』といいます。よくある人生の上がり下がりカーブの事です。

線で見るって多分こんな感じのこと


こうやって、人生を物語のようにとらえる発想は人生の大半を「途上」としてしまう考え方になるのです。

哲人:線としてとらえるのではなく、人生は点の連続なのだと考えてください。中略 人生とは、連続する刹那なのです。われわれは「いま、ここ」にしか生きることが出来ない。われわれの生とは、刹那の中にしか存在しないのです。
 それを知らない大人たちは、若者に「線」の人生を押しつけようとします。いい大学、大きな企業、安定した家庭、そんなレールに乗ることが幸福な人生なのだと。でも人生に線などありえません。
青年:人生設計、あるいはキャリア設計なども必要ないと?
哲人:もしも人生が線であるのなら、人生設計も可能でしょう。
しかし、われわれの人生は点の連続でしかない。計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に不可能なのです。

刹那・・きわめて短い瞬間の事  嫌わる勇気 P.264 ~265

この言葉を聞いて、青年は「くだらない!」とキレます。
私は、頭に除夜の鐘ズーンて響くような衝撃を受けました。
「えーいいの?そうなの?そんな考え方あり?!」としばし混乱しました。

でも、「じゃーどうやって生きていけばいいの?」ってなります。
そもそも、その目標が見つけられない、立てられないから、うまく歩けないと自分に言い訳をしていたのですが、「人生計画立てるなんて、不可能です!」て言われたら、もうお手上げです。

青年(私)は、「それで目標に到達できますか?」と哲人に聞きます。

哲人:こう考えてください。人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスをするように生きる、連続する刹那なのです。そしてふと周りを見渡した時に「こんなところまで来ていたのか」と気づかされる。
中略
ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していれば、それでいいのです。

嫌われる勇気P.266~267

私のこれまでのささやかな過去の栄光(人から表彰される等)は、狙って得られたものってないような気がします。
結果を手放して(執着なくて)、ものすごく集中して勉強とか仕事とかに取り組んだ時、突然ご褒美のような素敵なプレゼントがやってきたことがあります。
その時の感覚は、哲人の言うような『ふと周りを見渡した時に「こんなところまで来ていたのか」と気づかされる』に近いものがある気がします。
で、その結果を狙うと突然辛くなって、その狙ったものが得られない時、精神的に辛くなったりしていました。純粋に、「いま、ここ」を楽しめず、先ばかりを見て、自分を追い込んでいた感じでしょうか。

哲人:中略 もしも「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。
中略
哲人:人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来を見ることで自らに免罪符を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」には何の関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉などでてこない。

過去も未来も存在しない
「いま、ここ」を真剣に生きろ
 か。
こんなストレートな言葉を言ってくれる自己啓発書ってあったかな?

哲人:たしかに、人生を物語に見立てることはおもしろい作業でしょう。
ところが、物語の先には「ぼんやりとしたこれから」が見えてしまいます。しかも、その物語に沿った生を送ろうとするのです。わたしの人生はこうだから、そのとおりに生きる以外にない、悪いのはわたしでなく、過去の環境なのだと。ここで持ち出される過去は、まさしく免罪符であり、人生の嘘に他なりません。
中略
哲人:「いま、ここ」にスポットライトを当てるというのは、いまできることを真剣かつ丁寧にやっていくことです。

嫌われる勇気P.271~272

物語作りまくりです。
都合いい悪いとか関係なく、時には夢みたいな筋書き書いて、脳みそ癒したり、挑戦する場面は、どうせ駄目だという筋書きを作り、挑戦すらしない事があった。
耳が痛いです。
私は、都合が悪くなると、過去の免罪符(親がどうだ、とか周りがどうだとか)を持ち出して、なんとかして自分を肯定しようとしていた思います。
現実を見て、ここからどうするかを考えてなかったのです。(これが自己受容)

哲人:目標など、なくてもいいのです。「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンスなのです。深刻になってはいけません。真剣であることと、深刻であることを取り違えないでください。

嫌われる勇気 P.274

『真剣であることと深刻であることを取り違えるな』
ナイフのような切れ味です。
深刻になりがちなところあるんですよ。わたし。
何だろう・・深刻になる方が、周りが注目してくれるみたいなところがあったのかも‥
「いま、ここ」を真剣に生きる
もうこれだけなんですよ。

そういうことなんです。
長くなりすぎました。
「いま、ここ」を真剣に生きるって、シンプルだけどなんと力強い考え方なのか。
自分の心の真ん中に置きたい、でも色んなゴミみたいな思考(不安と不安とか不安とか)が邪魔して、すぐ見えなくなるけども、でもここに置いてあるのだという確かな気持ちを持って過ごそうと思いました。簡単じゃないけど。



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