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インターハイ中止に思うこと

先日、今年度のインターハイ中止が決まった。
学校の授業再開の目処もたっておらず、部活動もできていないという現状を考えると致し方ないことだとは思うけれど、数年前高校スポーツに打ち込んでいた私としては、いたたまれない気持ちになる。

競技から離れて久しいけれど、私はインターハイという響きに漠然とした憧れを抱く中学生だったし、高校入学後はインターハイを本気で目指すようになり、インターハイで勝つために日々努力する、インターハイのことで頭がいっぱいの高校生だった。

スポーツ推薦で高校に入るような人もいれば、友達に誘われて高校からスポーツを始めたという人もいるし、部活ありきで高校を選んだ人もいれば、進学のために勉強を頑張りたいから部活は二の次という人もいて、部活に対する熱量は人それぞれだ。
しかし、インターハイというものは、高校生の誰もが知っていると言っても過言ではないくらいメジャーなものだと思う。

インターハイ。各都道府県大会や地方大会の厳しい戦いを勝ち抜いた高校生たちが集う、高校スポーツの最高峰ともいえる場所。
その舞台でだけではなく、その舞台に立つまでの過程で、それぞれのドラマがある。
(私は陸上競技をしていたので、その経験をもとに書きますが、以下他の競技とは異なる部分があるかもしれません)

インターハイで勝ちたい、そのために日々努力を重ねる。仲間とぶつかることもある、厳しい練習に心が折れそうになる日もある。好きで始めたはずなのに、全く楽しめなくなることもある。努力が思うように結果に結びつかず苦しい時期もある。仲間や後輩が成長しているのに自分だけ取り残されたような気がして焦ることもある。オフシーズン、先が見えずこんなに辛い思いをするくらいならやめてしまおうか、なんて思うこともある。
それでも諦めず戦い抜き春を迎えると、インターハイ戦線が始まる。
冬を越えて春を迎えても油断なんてできなくて、春先にけがをしてしまいシーズンを棒に振る選手も少なくない。人数が多い部活だとレギュラーに入れない人もいる。

地区大会、都道府県大会、地方大会とラウンドが上がるにつれ戦いは厳しくなっていく。一部の選手を除き高校生の実力は拮抗しているし、高校生は気持ち次第で自分の実力以上のものを出せてしまったりするので誰がいつ勝っても負けてもおかしくない(それが高校スポーツの魅力でもある)。
多くの夢破れた選手がいる中で、選ばれた一握りの選手が、インターハイという舞台に立つことができるのだ。
インターハイ戦線の試合に出場できなかった仲間、思わぬところで敗退した仲間、お世話になった先輩や先生、応援してくれる家族や友人や後輩、ともに熱いレースを戦った他校の選手など、たくさんの人の思いを背負ってインターハイに臨む。

インターハイという存在は、人によって位置づけが違うと思うのだけれど、そのことも含めて、自由な場所だと思う。
高校を卒業しても競技を続けたくて、強豪チームに所属したいと考えている人は自分をアピールする場の一つだし、インターハイに何とか出場できた、ここで競技は一区切り、という人にとってはお祭りのようなものかもしれないし、1・2年生にとっては経験値を上げる貴重な場でもある。
インターハイは春からのインターハイ戦線の最終到達点であってその先の大会がないので、何のしがらみもなく、思い切り自分の競技をできる場所だと思う。

勝っても負けても、泣いても笑っても、ここが最後。
3年生にとっては言葉の通り最後だし、1・2年生にとってもその年のインターハイというのはここで終わりだ。またもう1年戦いが始まる。
振り返ってみると、インターハイは、厳しくも楽しい、輝いている場所だったなと思う。

それまでの地方大会などとは比べ物にならない、圧倒的な雰囲気がインターハイにはある。部員が100人以上いるようなインターハイ常連校の選手であろうとなかろうと、歩いている選手たちは堂々としているし、表情も生き生きとしている。勝つことの難しさを知っているからだろうか、会場でウォーミングアップをしているときからとてつもない緊張感がある。しかし、みんな楽しんでいるように見える。競技する姿から、その競技が好きという気持ちが溢れている。

勝てるのはほんの一部の選手で、悔しい思いをして涙を流す選手が大多数なのだけれど、インターハイで戦うということはかけがえのない経験である。インターハイは出たいと思っても誰もが出られる試合ではないし、好きなことを突き詰めてトップを争うということは厳しい、けれど他の何にも代えがたい幸せである、ということを身をもって体験できるからだ。

インターハイ中止は健康面などを考えると妥当な判断だ、というのが大方の見解だろう。
ただ、当たり前のことではあるがその年の高校生のためのインターハイはもう二度とやってこない。現在の高校生にとってインターハイ中止がどれほど重いことか考えると涙が出そうになる。
怪我をしてしまったり実力を出し切れなかったりしてインターハイに出場できなかったのと、インターハイが開催されず出場できなかったというのは、意味がまるで違う。自分以外の誰かがインターハイに出場していれば、悔しい気持ちは消えないけれど応援する、あるいは悔しさをバネに勉強を頑張る、ということができる。しかし戦ってもいないのに、何の区切りもなく終わってしまっては、気持ちのやり場がない。この状況ではベストコンディションで試合をすることはできなかっただろうが、せめて白黒つけたかった、そう思う人が多いのではないのだろうか。

健康のためだ!オリンピックも延期になっているのだ、できるはずがない!そう正論を振りかざすことは簡単かもしれない。けれどそれで納得できない、したくないというのが高校生ではないか、とも思う。
怪我をしていてもテーピングをぐるぐる巻きにして走る選手がいる。私自身、このレースを終えて息絶えてしまっても、脚が取れてしまってもいいという気持ちで走ってバトンを繋いだことがある。今後どうなってしまってもいい、そのくらいの思い入れがある人は少なくないだろう。

だからといって、インターハイを開催すべきとは考えられないし、決定が覆ることはないのだけれど、自分のことのように悔しくて苦しい。
この先のことなんて考えられない、考えたくないという人もいるかと思うが、同じように高校スポーツに青春を捧げた者として、これまでやってきた競技が好きだという気持ちは忘れないでいてほしいと思う。その競技の入口は、楽しいとか好きという気持ちだったはずだから。

きっとこれをきっかけに競技から離れてしまう高校生は多いだろう。そして、インターハイに限らず、様々なスポーツのイベントが中止になるだろうし、競技を続けることが困難になってしまう人も多いだろう。
これらのことは誰が悪いわけでもない、だからこそ悔しさや悲しみ、怒りといった感情をどこにもぶつけることができず消化不良になってしまって苦しい。
しばらくの間は以前のようなスポーツの楽しみ方はできないし、この事態が落ち着くころには、元通りというよりは新しいスポーツの形態が出来上がっているのかもしれない。

今回、スポーツ界が失うものは大きい。競技人口が減るスポーツが出てくることは避けられないし、競技レベルも下がってしまう可能性がある。それでも、せめて、これまで好きだったスポーツ(取り組んでいた、観るだけだった関係なく)に対する親しみの気持ちだけは忘れないでいたいと思う。

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