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誇りと冷静と躊躇と油断#4 老人と日本語

 以前、ソウルのタプコル公園で「あなたは戦争責任についてどう考えているのか」と面罵された話を書いた。しかし彼らの言うところの日帝時代、日本統治下の時代に日本語教育を受けて来た世代との接近遭遇は、毎回衝突と共にあったわけではなかった。

 ぼくを日本人だと記号化する材料は体型であると韓国人の友人は笑って言う。167センチ43キロという体型は韓国では兵役免除の対象となる。痩せすぎているのだ。兵役における訓練の結果、韓国人男性はいわゆるモムチャン(몸짱)、カッコよくごつい体型になる。痩せすぎたぼくは浮く。韓国の芸能人の兵役は日本でも度々ニュースになる。多くは悲しみと共に伝えられるが、兵役免除にも別の悲しみがある。

 兵役免除とは即ち、ひとつのイニシエーションへの不参加を意味する。社会での不利益は大きい。特に就職活動では大きなマイナスポイントとなるという。

 一方で兵役におけるマイナスも大きい。訓練が厳しく辛いのはもちろん、多くの男性がここで失恋を経験する。現在は没交渉だが、ぼくには日本語学科の学生の友人がかつて多くいた。男子大学生の多くは大学を休学して兵役に行く。2年生を終えて休学し兵役を務め、3年生で復学する人が多かったが、行って帰って来るとせっかく覚えた日本語の単語や表現の多くを忘れてしまう。

 日本語に限らずこれは全ての大学生にとってそうで、ゼロとまではいわないが積み上げた知識が3年生の段階で大幅に減少するのは社会全体にとってもマイナス。行くも行かずもマイナスばかり。

   社会から義務としてマイナスを負わされる必要のない日本で育ったぼく。韓国人の友人の前ではいつもどこか肩身の狭い想い、すまなさを感じていた。今も感じている。韓国人の友人たちに。また一方で北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国で出会った人たちにもだ。

 日本語教育を受けた世代が話す日本語は、1926年生まれのぼくの祖父が話す日本語と似ていた。そして多くの場合、気まずさを感じるこちらのことを考えず気さくに日本語で話しかけて来た。「懐かしいねぇ」などと言いながら。ぼくも初めは韓国語で答えていたが、語学力の圧倒的大差に甘えこちらも日本語で話した。

 かつて江原道をひとり旅したことがある。甑山(チュンサン=증산。現在はミンドゥンサン=민둥산)駅近くの小さな町で出会った老人は「わたしは戦後初めて日本人を見ました」と驚いていた。江原道の小さな町を訪れた日本人は、それまでほぼいなかったようだ。

「いやー、半世紀ぶり、戦後初の日本人がぼくなんかですみません」と答えると、老人もどう反応を返していいのか困った様子で、ふたりで頭をかきかきしていたのだが、祖父のような日本語と共に感じる暖かさとは何だったのだろう。

 祖父は数年前に亡くなった。日本語教育を受けた韓国人も少なくなったはずだ。そういえば、彼らが揃ってドヤ顔で言っていたことがある。「日本の学生さん。よく聞きなさい。そして安心しなさい。韓国人は情が厚い民族ですからね」と。「情が厚い民族」。このことばを後年ぼくは、東京でも、そして平壌でも聞くことになるのである。

■ 北のHow to その51 
  日本統治下で教育を受けた世代はほとんどいなくなりつつあります。北でも南でも。面罵される可能性が減った分、日本への憧憬を持った人もいなくなったことを意味します。
 もしお会いすることが出来たら、若いころの話を恐れず聞いてみましょう。日本統治下に何があったのか、何を考えていたのかを聞くことは豊かな経験となるはずです。

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