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向田邦子さんとツルチックと、韓国人

 私淑する作家の向田邦子さんのエッセイの中に「ツルチック」という飲み物に触れたものがある。赤い色の飲み物で水に薄めて飲んだ記憶があると紹介されていた。エッセイ集「眠る杯」に収録されているこの作品で触れられているのは、들쭉(クロマメノキ=小学館・朝鮮語辞典より)のことを指す。カタカナにするとトゥルチュッという読みがより近い。このエッセイには続きがあり、ツルチックの正体が明らかになり、そのキーとして意外な人物が登場する。気になる続きは、読者のみなさん自身で確かめて欲しい。

 들쭉についてブルーベリーと訳している場合もあるが、酸っぱい小粒のぶどう類の植物のことを指すと思っていただければ間違いないか。これを北朝鮮では加工し飲料としている。植生の関係か、南では余り들쭉の商品を見たことがない。

 向田さんの作品でもうひとつ、唐突に朝鮮関係のものが出て来たことを思い出した。直木賞を受賞した短編小説集「思い出トランプ」の中の「だらだら坂」。主人公の庄治と父が、北朝鮮に帰国した舞踏家の崔承喜(チェ・スンヒ=作中ではさいしょうきとルビがうたれている)を見に行ったシーンが挿入されている。

 あれは板門店だったか江陵だったか。たぶん、板門店だろう。軍事境界線近くの売店では北朝鮮のものが色々と売られていた。そこでぼくは向田さんの言っていた「ツルチック」の小瓶をあっけなく発見し手に入れてしまう。ただし、アルコール入り。体質的にアルコールを受け付けないぼくは、興奮にまかせて買ったはいいが処分に困ってしまった。空き瓶だけ貰って中身は何とかせねば。

 しょうがない。ぼくは、仲の良かった婦警さんのいた西大門警察署を訪ねた。「これ北朝鮮のお酒です。お土産です。みんなで飲んでくださいよ」。警察署に外国人がアルコールの差し入れというのもめちゃくちゃな話だが、婦警さんはじめその場にいた全員が「おいおい!北のお酒だってさ」と色めきだった。当時、韓国人は板門店に行くことはほとんど出来なかった。

 ひとり当時60代の半ばくらいだろうか。警察を引退してボランティアで窓口に立つ男性がいた。日本語も少し覚えていて、唐突に日本語の歌を歌い出し「知っているか」と聞く。ぼくの祖父の世代の歌だ。そんな古い歌をぼくがわかるわけがない。「日本に帰国したら曲名を調べておけ」と言われたけど、そのままにしてしまった。

 その男性が「よし、みんなで飲もう!」というのである。韓国では年長者の提案をなかなか強く否定は出来ない。とはいえさすがに飲酒はまずい。「いや、勤務中に酒はダメですよ」と周りの警官も婦警さんも、ぼくも止めた。ほんの小さな小瓶ではあっても、バレたら間違いなく不祥事である。「ダイジョーブ!」と日本語で男性はいい、くいっと栓を開けると唸ったのである。

「北もなかなかやるな。これは実にうまいぞ」

 ズッコケた。「隠せ!」「早く飲んじゃえ!」とみんなで笑った。この男性のことばにぼくは少し驚いていた。男性はゴリゴリの反共教育、反北朝鮮の教育を受けて来た世代である。「北朝鮮の人は頭に角が生えている」と教育され、それを本気で信じて来た世代である。

 ちょうど潮目が変わった時期だった。初の南北頂上会談が行われ、金大中大統領(当時)が平壌に行き、金正日総書記と会談して来た直後の話。それまでは「英雄的朝鮮人民軍に栄光あれ!」という肉声しか知られていなかった金正日総書記。急速に融和ムードが広がり、北朝鮮と金正日総書記へのイメージが変わり始めた時期だった。

 男性はひと瓶空けてゴキゲン。みんなで「あーあ、全部飲んじゃった。知らねーぞ」と顔を見合わせてくすくすと笑った。あっけなく空き瓶になったツルチックと共に、「北もなかなかやるな」というからっとした男性の声。ぼくは当時、急速に変わりつつある韓国における北朝鮮のイメージに驚いていたのだった。

■ 北のHow to その91
 들쭉のお酒は、訪朝の際お土産店に行けばほぼ確実に手に入ります。少しだけ飲みましたが、酸味の強いぶどう酒という印象があります。
 ただし、大瓶が多く帰国の際にはかさ張るのと、北京空港の税関での没収の可能性が高く、買うのは怖いです。
 向田邦子さんのファンならぜひ、お買い求めの上献杯を、ぜひ。

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