見出し画像

また会いに行きます

(一)

「はあ……」

ぼくは今、海に向かう電車に乗っている。下り方面の電車ではあるが、しっかりと電車は混んでいて、休みの日は旅客が語らうためのだろうボックス席には、朝から疲れたサラリーマンが死んだように眠っている。
ぼくの会社は海まで到達することも無い駅にあって、毎朝ぼくはいつだって自由に海に行く権利を持っているのに、一度だって自由になろうとしたこと、出来たことはないのだった。せっかく海に向かう電車に乗っているのに、全くもって消化不良である。
あとひと駅というところで運良く座れたぼくは、なんだかどんどん眠くなって、スマートフォンで眠気を誤魔化してみても、やっぱり眠くて。気付いたら寝落ちてしまっていた。

ぼくは生まれて初めて寝過ごしたのだ。

今日はもうやめにしよう。ぼくの中のぼくがそう呟く。今から逆方向に乗ればまだ間に合うから。ぼくの中のぼくがそう呟く。

「あ、下村です。あの……朝から少し体調が悪くて……」

案外するすると嘘が出てきて我ながら感心する。体調不良を心配する先輩の声は、聞いていて少し心苦しかったが、晴れてぼくは束の間の自由を手にしたのだ。
電話のために途中下車したぼくはまた、下り電車に乗ってゆらゆらと揺られていく。海の方に向かうにつれて、スーツのサラリーマンはどんどん消えてった。いつもは座れないボックス席に、自分の荷物を真横においてゆったりと座ってみる。すると、少し開いた窓からの風と太陽光が心地よい。いつもの電車が、まるで別物のように感じられる。

「ああ、そろそろか」

終点駅にたどり着き、改札を出ると微かに海の匂いがする。それだけで自由を感じることが出来たような気がした。ぼくはスーツのジャケットを脱ぎ、思わず大きく深呼吸をした。自由だと叫びたい気持ちを堪えて、海まで歩く。段々と海の匂いが濃くなっていく。朝の九時過ぎは、ぼくたちには早すぎて、店のひとつもやっていない。しかし、その静けさが心地よかった。そんな中、小洒落たパン屋がひとつ開いているのか、焼きたてのパンの匂いが鼻腔をくすぐる。そう言えば今日は朝ごはんを食べ損ねていたなと、その匂いに誘われるがまま店に入る。

「いらっしゃい」
「あ、はあ……」

小さなパン屋だったから、てっきり小柄な女の子が出てくるのかと思ったら、今にも天井に頭がつきそうなほどに大きく、精悍な顔つきの男が出てきて、少し驚いてしまった。

「お、オススメは……」
「全部!と言いたいところだけど、クロワッサンかなあ。やっぱり」

腰に手を当てて首を傾げて彼はそう言う。店のオリジナルの物だろうか、赤いエプロンが良く似合う男だなと思った。

「やっぱり?」
「なんかね、クロワッサンだけ偉く売れるんだ。なんでだろうね?」
「さあ?あー、じゃあ、クロワッサンにします。あとパックの牛乳も下さい」
「はいよ」

まだ温かいクロワッサンと牛乳を持って海までの道をとぼとぼ歩く。ほら、もう海は目の前である。しかし、なぜぼくはこんなに海を求めているのだろう。勝手に海を自由のシンボルと決めつけて、勝手に崇めて、勝手に求めていただけなのかもしれない。でも、それでも良かったのだ。
どこまでも広がる海がよく見えるベンチに腰掛けて、先程買ったクロワッサンを食べてみる。すると、どうだろう。サクリと歯触りの良い食感に、バターが良い仕事をしていて思わず顔がほころぶ。

「美味いっすか?」
「うぇえっ?!!」

背後からの声に、思わず大きな声が出る。振り向くと、声の主は先程の店の彼であった。

「ど、どうして?」
「もうほら、お兄さん自分をよく見て」
「へ?」

手に持ってるのはクロワッサン、あと牛乳……。

「あ」
「ほら、全部忘れてっちゃうから」
「あ、もう……ほんと、ごめんなさい。あ、お店の方……」
「店は弟に任せてるから大丈夫っすよ」
「いや、でも……本当、申し訳ない……」
「全然。それにしても、ここ良いっすよね。俺もよく来ます」
「はあ……そうなんですか。うん、本当に……良い場所ですね。あ、良かったら隣……座ってください」
「ああ、どうも」

彼が腰をかけるのをじいっと見つめていると「お兄さん、変なの」と、彼はコロコロ笑った。

「クロワッサン美味かったっすか?」
「バターがよく効いていて美味しかったです」
「そりゃあ良かった」

小さな沈黙が流れる。その沈黙は重苦しいものでなく、心地よい静けさであった。その静けさを割ったのは、他でもないぼくであった。

「ぼくね、自由になりたかったんです」
「自由ってなんなんでしょうね」
「ぼくは、海みたいなものだと、勝手に思っています」
「どうして?」

どうしてなのだろうか。たまたまぼくの会社が海に向かう電車の沿線にあるから?いや、この会社に入るずっとずっと前から、ぼくは海のことを自由だと思っていた。かと言って海が特別好きな訳でもない。第一泳げないし。

「なんとなくです」
「そりゃあ良い」
「お兄さんは海、好きですか?」
「まあまあかな」
「まあまあ……?」
「うん。まあまあ。もう日常だからさ、好きも嫌いも何も無いんだよ」
「なるほど」

そこからは長い沈黙だった。しかし、先程と同様にとても心地の良い沈黙であった。彼の明るい茶色の髪が、海風で時々ふわふわ揺れているのを、ぼくはドキドキしながら見ていた。ゲイでもなんでもないし、彼の名前も知らないのに、なんだか凄くドキドキするのだ。それはとても好きな景色であった。

「綺麗ですね」
「……ん?」
「ああ、いや、なんでもないです」
「海がっすか?」
「うん……。海も」
「ふうん」

パックの牛乳はすっかり飲み干してしまったが、なんだか口寂しくてストローを咥え飲んでいるふりをする。ちうちうとかすかに感じる牛乳の匂いを吸ってみても、これといった喜びは感じられないのだけれども。
ふと我に返ったぼくは「海も」と思わず言ってしまったことを後悔した。幸い彼は「ふうん」と一言だけで済ませてくれたが、彼が万一ぼくのようなねちっこい性格であったら、どうだろうか。帰り道とか、シャワーを浴びている最中とか、ふと1人になったときに「……も?」と気になってしょうがなくなってしまうに違いない。「も」ってなんだろう、そんなことで彼の思考のリソースを使用されてもらってはぼくが困る。なんせ申し訳ないからだ。ただ、この再びの沈黙のなかで「あー、さっきの海"も"っていうのはですね……」と弁解をしていくのはあまりに不自然だ。かえって「も」の意味を考えてしまう。ダメだダメだ。

「"も"ってなんすか?」
「うぇっ?!」

彼はからりとした口調でそう言う。ぼくは思わずベンチから崩れ落ちそうになったが、すぐさまズレ落ちたメガネをかけ直して、体勢を整えた。

「ほらさっき"海も"って。海の他になにか綺麗なものってあんのかなって」
「ああ、そんなこと言いましたっけ?」
「言いましたよ。俺、こう見えてもよく覚えてるタイプなんで」

赤いエプロンのポケットからタバコを出して、器用に箱から1本だけ出して咥え、火をつける。ゆらゆらと上がる煙も実に穏やかであった。

「あ、タバコ」
「吸います?」
「じゃあ、いただきます」

何年ぶりかのタバコの味はとても苦く感じて思わず顔をしかめる。

「普段吸われないんすか?」
「いやあ、何年か前に禁煙したんですよ。前のカノジョに嫌がられて」
「はあ、よくある話っすね」

2人並んでタバコを吸いながら、ぼうっと海を眺めてみる。酷く落ち着くから、ぼくは少し不安になる。なんせ出会って小一時間の男である。それなのに、こうして今、彼から貰ったタバコをにがにがと吸っている。おまけにその苦い味が嫌に思えないくらい、穏やかで緩やかな時間が流れているのだ。不思議なものだが、この穏やかな空気にぼくは自由を感じた。もしかして、彼のこそ自由のシンボルなのかもしれない。ぼくはふとそう思った。

「お兄さんは自由ですね」

思ったことがポロポロと出てきてしまうのは昔からの悪い癖である。ああ、またやってしまったと嫌な気持ちを、タバコの味で誤魔化した。

「ん?」
「あ、いや……今日、実は会社サボって来たんですよね。自由が欲しくなっちゃって」
「ふうん……」
「お兄さんは、いいなあ……」
「パン屋もなかなか大変ですよ。朝早いし」
「あーいや、そういうんじゃなくて。なんて言ったらいいのかなあ……」
「さあ?」

ぼくはまだ、彼への気持ちに名前が付けられていなかった。えも言われぬ感情を噛みながら、再び海を眺めてみる。パタパタとカモメが飛んでいる。そういえば、なんだか街も先程よりも賑やかになってきたような気がする。どれだけの時間が過ぎたのだろうかと、腕時計を確認するともう午前中も終わろうとする頃であった。

「もう、お昼ですね」
「オススメの蕎麦屋があるんすよ。良かったらどうっすか?」
「ああ、良いね。蕎麦。でも、また今度ね」
「どうして?」
「んー、何となく」
「そう」

すっかり風味もしなくなった牛乳パックを啜り、ぼくはすっくりと立ち上がる。

「お兄さんのおかげで、良い日になりそうだよ。ありがとう」
「ええ、またいらして下さいね」
「じゃあまた」

「お兄さんに、またお会いしたいです」とは言えなかった。それだけが心残りであった。午後はそうだな、何をしようか。たまには花なんか買ったりして、穏やかに過ごすのも良いのかもしれない。まあ柄じゃないけれど。

「しかし、いい天気だな」

大海は変わらず陽の光を浴びてチラチラと輝いている。その輝きに目を細め、ひとつ欠伸をする。

電話が鳴る。

社用のスマートフォンが、良い気分をぶち壊すかのように鳴り響く。ぼくは「はあ」とひとつため息をついて、電話に出る。

「はい、下村です。あいにく本日病欠してまして……」
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、わたし」

可愛らしい子どもの声がする。しかしそれは、どこか掠れており、古いテープで流したかのような少々気味の悪い声である。

「ん、はい?」
「わたし、ゆうこ」
「ど、どちら様…?」

恐る恐る電話番号を確認すると、当たり前のように非通知設定である。間違い電話だろうと切ろうとすると、「お兄さん、ちょっと待って」と、耳馴染みの良い声がする。

「あっ、さっきの」
「その電話」
「えっ?あー、間違い電話なんで……」

電話を切ろうとすると、彼の美しい顔に、くっと力が入る。

「えっ?お兄さん?」
「非通知で、女の子の声がしませんでしたか?」
「は、はい」
「やっぱり」
「どういう……」

ぼくの疑問を遮るように、彼は続ける。

「貸して貰えますか?それ」
「あ、……ええ」

スマートフォンを渡すと、彼はすかさず耳にあて、酷く優しい声でこう続けた。

「ゆうこ、オレだよ」
「ゆうこ、帰っておいで」
「ゆうこ、どうして何も答えてくれないんだ」
「ゆうこ、ゆうこ」

"ゆうこ"と呼ぶ声が段々と力強くなる。何かを祈るかのような、彼の放つ力は、"ゆうこ"という音が一番高くなった時にふっと弱まって、すぐ消えた。

「あの……」
「いつもなんです」
「いつも?」
「オレがクロワッサンをお客さんに売ると、ゆうこが、電話をかけてくるんです」
「ゆ、ゆうこさんって……」
「末の妹です」

ここから先は、何も聞きたくないなと思った。だって、そうに決まっているから。そうじゃない方がナンセンスである。

「行方不明になったんです。探してるんですけどね」
「はあ……」

あの声はそういうものだと、分かってはいたけれど。いざ、正解を叩きつけられると、怖さよりも納得の方が勝ってしまう。

「ごめんなさい、せっかくのお休みに変な思いさせちゃって」
「いいえ、見つかるといいですね、その……ゆうこさん」
「ええ……」

見つかるといいですね、とは彼に対して何とも残酷な一言だったなと言った後に思ったが、彼の苦虫を噛み潰したような顔を見ると、ぼくは途端に何も言えなくなってしまうのだった。


(二)

季節は巡り、コートのお世話になる頃に、ぼくは再び海に来た。

あのパン屋は、相変わらず朝から良い匂いを漂わせ、今日も客を誘っている。ぼくは再び彼に会いに行く。意味はなかった、彼に会いたくなったというわけでもなかった。
パン屋の暖簾をくぐると、あの時の彼とは打って変わって、小柄で、とても可愛らしい女性が出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ、こんにちは」
「あの、クロワッサン1つください」

「ゆうこー、クロワッサンまだ!ちょっと待ってもらって!」

奥の工房から威勢のいい声がする。しかし、彼の声ではない声だった。

「お兄ちゃん、聞こえてるから。声大きいって」
「ゆ、ゆうこ……さん?」
「へっ?あ、あのクロワッサンちょっと待ってもら……」
「ゆうこさん?!ゆうこさんですか!」

カウンターを越えて彼女の小さな肩を思わず掴むと、彼女はびっくりした顔で僕を見つめた。

「えっ、ゆうこです……。それが何か?」
「あ、あのこの前の夏、お兄さんが……」
「お兄さん……?」

ぼくが肩から手を外すと、奥にそそくさと帰ってしまった。しばらくすると、彼女は先程の声の主の腕を引っ張り「これ、ですか?」とぼくに問うた。

「いや、もっと若くて背の大きい、茶髪の……」
「ああ……」

意図的にずらされた彼女の目線の先に、ひとつの写真。その写真を視界に入れると、ぼくは少し嬉しく思った。だって、彼が写っているのだから。あの日と同じ赤いエプロンを着けた男と、中学生くらいの男の子と、小学生も低学年くらいの女の子がその写真には写っていた。

「こ、この人です!この人が、探してて、ゆ、ゆうこさんを!」

ぼくは写真立てを掴み取り、彼女の眼前に押し付けた。

「ああ……」

呆れたような顔をした彼女は、ようやく焼きあがったクロワッサンを男から受け取り袋に詰める。

「いつも、なんです」
「いつも?」
「前回もクロワッサン食べましたか?」
「ええ、はい」
「また、購入してくれてとっても嬉しいです。兄もきっと喜んでますよ」

そう彼女が喋る間、写真をよく見てみると違和感にふと気づくのだ。

'02 8 21

写真にはそう記されていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?