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フェミニズム論争が争いを生み続ける本質的な理由

 この記事は世界平和について、筆者の私的な考察をまとめた一連の記事の第五回目になります。各回完結した内容となっていますが、続けて読むと、よりわかりやすい内容となっています。過去分の記事はこちらから。

戦国時代の真の勝者から考えるジェンダー論

 浅井長政という戦国大名がいます。
 北近江(今の滋賀県)を本拠地とし、かつての同盟者であった織田信長に楯突いたことから、小谷城の戦いで打ち滅ぼされることとなる武将で、もし戦国時代を天下統一を賭けた全国大会に例えるならば、せいぜい準々決勝あたりで敗退した、歴史的には敗北者というべき人物です。
 ところが浅井長政の娘たちは浅井家滅亡後も生き長らえ、長姉の茶々丸(淀殿)は豊臣秀吉の側室として秀頼を産み、末妹の江姫は徳川秀忠の正室として後の三代将軍家光を産みました。
 ここで考えて頂きたいのは、天下統一全国大会の優勝決定プレーオフ戦となった豊臣家VS徳川家の争いは、どちらが勝つにしろ、浅井長政の遺伝子が天下を継承する戦いであったことです。
 歴史とは一般に「勝者の歴史」です。そのため「女性が歴史に果たした役割」というと、「秀吉の死後に北政所(ねねさん)が発揮した政治力」や「尼将軍北条政子の男勝りなリーダーシップ」のような話がフォーカスされがちです。
 しかし、そもそも男性的な視点である「勝者の歴史」で「女性の役割」を評価することは正しいのでしょうか。それこそ勝者の系譜によって連なる男系優先の「家系図」ではなく、浅井長政が「娘たちの血」を媒介することで歴史に決定的な影響を与えたように、女親の生物学的な遺伝子の継受を辿っていく「女系図」のようなもので歴史を再点検するならば、これまで全く異なる歴史の様相が現れてくるのではないかと、筆者は考えることがあります。

 男性性と女性性の差異を、単なる能力や性向の違いと考えると、かえって本質を見誤るように思えます。両者の間には物事の見方や考え方の全面的なパラダイム転換を必要とする原理的な差異が横たわっているのです。

父性原理と母性原理


 この男女の性差に着目し、父性原理優性社会と母性原理優性社会を提唱したのがユング心理学者の河合隼雄です。ここで河合隼雄氏の論を以下に引用します。

 母性の原理は「包含する」機能によって示される。それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包みこんでしまい、そこではすべてのものが絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子どもの個性や能力とは関係のないことである。
 しかしながら、母親が子どもが勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子どもの危険を守るためでもあるし、母=子一体という根本原理の破壊を許さぬためといってもより。このようなとき、時に動物の母親が実際にすることがあるが、母は子どもを呑みこんでしまうのである。かくて、母性原理はその肯定的な面においては、生み育てるものであり、否定的には、呑みこみ、しがみつきして、死に至らしめる面をもっている。
 (中略)
 これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子どもを平等に扱うのに対して、子どもをその能力や個性に応じて類別する。極端な表現をすれば、母性が「わが子はすべてよい子」という標語によって、すべての子を育てようとするのに対して、父性は「よい子だけがわが子」という規範によって、子どもを鍛えようとするのである。父性原理は、このようにして強いものをつくりあげてゆく建設的な面と、また逆に切断の力が強すぎて破壊に到る面と、両面を備えている。

河合隼雄「母性社会日本の“永遠の少年”たち」『河合隼雄著作集第10巻 日本社会とジェンダー』岩波書店 所収


 また、この両原理の特徴の対比を図にまとめたものが以下になります。

対比表

 お気づきになられた方もいらっしゃるかと思いますが、父性原理と母性原理はそれぞれ、筆者が以前より言及している「西洋の知」と「東洋の知」にも対応します。大まかにいって西洋は父性原理が優性な社会であり、日本を含めた東洋は母性原理が優性な社会であるといえます。
 さらに、筆者はこの父性原理と母性原理に「競争原理」と「生き残り原理」の対比があるのではないかと考えます。
 男性にとって子孫を残すことは、他のオスあるいは精子間での競争に勝利することを意味します。一方、出産時の死亡率が高く、乳幼児の生存率が低かった時代において、女性は多くの子供を生み続ける身体的資本に優位性があったことから、生物学的な蓄積によって、このような差異が生まれものではないかと推察します。
 つまり、長い生命の歴史において、男性が「勝つことで生き残ってきた」のに対し、女性は「生き残った。(その結果)勝ってきた」という違いがあるといえます。

父性原理と母性原理は議論のテーブルを共有できるか?

 さて論旨がややこしくなるため、あえて割愛していましたが、河合隼雄氏によると、人間は誰しも両義性を持つものであると述べられています。つまり男性(女性)であっても、父性と母性の両原理を有しており、パーソナリティによってそのバランスが変化する(通常は男性は父性原理が、女性は母性原理が優勢であることが多い)とされます。これは父性“優性”社会というように、社会においても同様のことがいえます。
 昨今、ジェンダー論は意見の衝突が激しい分野となっていますが、その大きな理由がこの原理差によるディスコミュニケーションにあると考えます。以前の記事でも述べたように、同一の単語であっても、その言葉が持つ文脈(ここでは背景となる原理)が異なれば、全く意味合いの違う言葉となるためで、そもそも議論が成立しないことさえ珍しくありません。たとえるなら、ゴッホの絵の価値について議論するのに、一方は美的価値について論じているのに、もう一方は金銭的価値について論じているようなものだといえます。
 原理を異にする問題は同一次元で語るべきものではなく、別の基準軸によって評価されるべきものです。そこで、それを視覚的に捉えるために、座標化したものが以下の図になります。

座標


 図のように、男性は競争原理(Y軸)を基準軸とするため、座標上にマッピングしていくと、おおよそグラフ上に示した男性グループ領域に収束すると思われる。
 一方で女性は生き残り原理(X軸)を基準軸とするため、その大半が女性グループ領域に位置することとなる。
 なお、赤で示した破線はその時代における生存水準ラインである。X軸座標がこのラインを満たさない個体は、生き残る期待値が限りなく低くなる。

 上記のように、男性は社会を序列化した時、女性の上位に位置しやすくなる一方で、女性は生き残り原理(X軸)を基準とするため、社会的な生活水準が低く生存にシビアな環境下では男性よりもサバイブしやすいという点に優位性を持ちます。
 ところが、ここ数世紀の間に、世界的な生活水準が飛躍的に押し上げられたことにより、地球人類にとっての生存権は男女に関わらず基本的人権として保障されるようになってきました。
 それ自体は人類の進歩として評価されるべきことですが、そのために女性のアドバンテージであった生き残り原理の価値が低下し、相対的に男性と比較した時に「女性であること」の不利さが顕著に目立ち始めるようになったのではないかと考えます。このことは、おそらくフェミニズム運動の勃興と無関係ではなく、第一波フェミニズム運動がイギリスやアメリカといった「豊かな国」で起こったのも、それを示唆するものであるといえます。
 
 筆者は女性の地位向上には基本的に賛成する立場です。しかし、フェミニズム運動が単なる「女性の“社会的”地位向上」を目指す場合、男女の不平等は解決されないと考えます。女性の競争原理軸が押し上げられたケースとして、次の図をご覧ください。

修正座標

 視覚的に、これが男女平等でないことはすぐに理解いただけるかと思います。ちゃんとした説明が欲しいという方には、こちらに別記事を用意したので、ご参照ください。

多様性には競争原理も生き残り原理も必要である

 では、男女間の不平等のない誰もが生きやすい社会を作るには、どうすればいいでしょうか。
 ひとつの解決案として考えられるのは、男性の生き残り原理軸もプラス圏に引き上げることです。ところが、これは現実的には実現不可能なプランといえます。なぜなら父性原理と母性原理は本来相補的に作用するもので、社会全体が両原理を高いレベルで維持し続けるというのは考えにくいからです。経済用語を用いるならば、競争原理と生き残り原理はトレードオフの関係にあるといえます。
 そのため、競争原理水準を引き上げられた女性は、中長期的にはその優位性を失い、男性と同じ生き残り原理のマイナス領域に引き寄せられることが予想されます。これは人類全体からみれば望ましい状態ではありません。多様性という観点からみれば人類の分布領域が非常に狭い範囲に限定されてしまうためです。

 図をご覧ください。

歪なピラミッド

 父性原理(左図)、あるいは母性原理(右図)のみでは、健全なピラミッドは存在できず、歪な社会となり、多様性は失われることになる。

 筆者は野球観戦が趣味なのですが、高校野球部で一番強いのが大阪桐蔭だからといって、日本の野球部は大阪桐蔭高校ただ一校だけでいいとなれば、野球文化はあっという間に衰退するでしょう。あるジャンルの盛り上がりには、競争的強者の存在だけでなく、参加人口の裾野の広さも必要です。つまり一方の極では甲子園高校のような頂点へと収束されていく尖った競争原理が確保されつつ、もう一方の極では草野球の延長のような、のびのびと野球を楽しむ部活が存在を許されるという生き残り原理の包摂性もあるからこそ、全体としての野球文化の水準は維持されるのだといえます。
 競争原理に過度に偏重することは、特定の勝ちパターンにリソースが集中しやすく、過適応的な現象が起こりやすくなります。その結果、人類社会は柔軟性を欠いた硬直した社会になり、ちょっとした環境の変化にも破滅的な影響を受けることになります。
 かといって、生き残り原理だけでは切磋琢磨が行われなくなるため、進歩や発展は生じません。
 つまり、本当の多様性には、競争原理の担い手も、生き残り原理の担い手も両方ともに存在することが必要となります。

ピラミッド

 健全な多様性のピラミッドは、父性(競争)原理と母性(生き残り)原理の領域が、それぞれ確保されていてこそ存在することができる。

「男女平等社会とは誰もが生きやすい社会である」ことの本当の意味

 それでは女性は社会的に抑圧され続けるのが正しいのでしょうか。
 筆者は決してそんなことはないと考えます。これまで“社会的”と留保付きで述べてきたように、問題は女性の尊厳を“社会的”なレベルで議論することの是非にあるのではないかと考えます。なぜなら「社会的地位」という人間を序列化する考え方そのものが、父性原理的な発想といえるからです。

社会制度

 競争原理を土台とした社会制度は、その重心がどこに移動しようとも、それはパワーバランスの問題に過ぎず、アンフェアを争点とした綱引き(利害対立)闘争が永遠に続くこととなる。

 従来の社会制度は父性原理に立脚しています。そのため、それは女性にとっては不公平なものでした。
 だからといって現行の社会制度を、より女性側に移行するというのであれば、それはアンフェアの重心が女性側に変化したという問題に過ぎません。

 しかしながら、多くの識者が指摘しているように、人類の創造性とは、フィクションを構築する力にあるとされます。つまり人類とは、原理性とは別のレイヤーにおいて、「そこにどう意味づけを行うか」という「価値観」を見出すことができる生き物です。
 そこで、それぞれの競争原理と生き残り原理はそのままに、その上部構造にコンセンサスとしての「人間的価値」を構築することができるなら、それが新しい社会制度を考えるうえで、社会の最大公約数的な土台となりえるのではないかと筆者は考えます。

修正社会制度

 父性原理と母性原理の橋渡しとして「人間的価値」を構築し、その上に社会制度を設定する三階建ての構造。これによって、男性も女性も平等に社会制度に参加することが可能になり、なおかつそれぞれの個別性を活かした生き方も自由に選択できるようになる。


 そしてこのような社会では、それまで絶対的な位置にあった「社会的価値」という単一の物差しは相対化され、「個性的価値」とでもいうべき個人の特性を反映した多様な物差しが標準化されることとなります。言い換えるなら、個人の資質にあわせた「人生の最大化から最適化へ」というライフスタイルのパラダイムシフトを可能にします。

弱肉強食社会から共存共栄社会への移行


 これは国家レベルについても同様です。父性原理(競争原理)に立脚した西洋的価値観が支配的な現代社会においては、能力主義という直線的な基準軸が、他者との相対的関係によって自己のポジショニングを決定します。そのため世界とはしばしば他者を蹴落とすことによって自己を充足させるための欲望の椅子取りゲームとみなされます。これは非常に強力な社会の推進剤として人類の進歩と発展を促したのは確かですが、その一方で、他者(他国)との敵対関係を加速させたり、優生思想のような似非科学ともいうべき考え方を生み出すなど、破壊的な作用も及ぼしました。
 父性原理的価値観を母性原理(生き残り原理)によって補償することは、基準軸を多次元化することで、競合的にならない社会的な「棲み分け」の余地を拡大することを意味します。これは従来の弱肉強食モデルから共存共栄モデルへの移行を意味します。

最適化

 競争原理軸のみの社会(左図)では、自己の相対的位置は、他者との関係性のうえで決定するため、世界は他者を蹴落として上位を目指す椅子取りゲームとなる。
 一方、生き残り原理軸で補償された社会(右図)では、基準軸が多次元化するため、棲み分けの余地が生まれ、共存共栄を可能にする。

このような社会を生み出すために必要なものは何か?

 とはいえ最大の問題は、前述のようなコンセンサスを構築するための技法について、科学的知があまりにも無力である点にあります。それというのも、このようなケースでのコンセンサスとは、結論そのものよりも、お互いの価値観をすり寄せ、そこに至るまでに「納得感」を高めていくプロセスにこそ意味があるからです。
 にも関わらず、科学的思考(これまでみてきたように父性原理に基づく方法論)は最短ルートで最適解に達することを是とするため、そこで出てきたものが空虚な論理的解に過ぎないことが多々あります。
 禅においては、「火が熱い」ということを知識として知っていることと、実際に火に触れて実存的に「火が熱い」ことを体得することには大きな違いがあるといいます。もし火を扱うのにも関わらず火の怖ろしさに無知だというのであれば、それがいかに危険であるかは言うまでもないでしょう。
 それと同様にコンセンサスとは、対立関係において生じる「混乱」や「怒り」や「恐怖」、あるいはそこに関わる「痛み」を、体験的に受け入れる心的態度なくしては構築できません。
 そして、そのために必要なのが、筆者が主張する東洋的知の在り方といえるのです。

 ようやく、核心的な内容に入ってきたかと思いますが、今回の更新はここまでとなります。

 私的にこういった探求をするというのは非常に孤独な作業であるため、この記事を読んで少しでも面白いと感じて頂けた方は、応援する意味でもフォローして頂ければ、すごく嬉しいです。
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