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世界平和のためのマインドセット

 この記事は世界平和について、筆者の私的な考察をまとめた一連の記事になります。
 今回分から読んで頂いてもかまいませんが、できれば以下の目次から前回の記事を読んでからの方が、読みやすい内容になっているかと思います。

 さて、前回の記事において、「世界平和は不可能という思い込みが、いかに世界平和の実現を妨げているか」について考察しました。
 もっとも、世界平和が可能と信じるだけで、世界平和が実現するというのは、あまりに楽観的過ぎて説得力に欠けるでしょう。
 そこで本来であれば、そのための具体的内容について早速踏み込んでいくべきところですが、その前にいくつかの準備が必要になります。なぜなら、世界平和を実現するためには、通常の科学的思考だけでは困難であり、近代科学思想とは全く異なる知の体系が必要とされるためです。しかしながら、現代人にとって科学的思考は第二の本能といえるまでに根深いものとなっているため、なんら前提となる説明もなしに具体的考察に入っていくことは、かえって誤解を招くものになると思われます。
 そこで、やや遠回りではあるものの、科学的知とは異なる知の体系について、筆者独自の考えをまじえながら、数回(全4回となる予定)にわたって考察していきたいと思います。
 まずは、なぜ科学的思考だけでは世界平和は実現できないのか。それを理解して頂くために、「思想」というものが孕む誤謬性について、筆者なりの考えを述べたいと思います。

思想とは文脈である

 思想とは何か?

 筆者が定義する思想とは、一言で表現するなら「世界をわかりやすく理解するための文脈(コンテクスト)」となります。
 もちろん、これでは何のことかさっぱりだと思いますので、具体例をあげて考えてみましょう。

 たとえば、ライオンをイメージしてみてください。
 ライオンの鋭い牙や爪、あるいは強力なバネを生み出す足腰は、「獲物を狩る」という生存戦略のために、遺伝子によってコードされています。
 ところが、生物は設計図(グランドデザイン)だけでは上手く生きていくことができません。雨で濡れて滑りやすくなった草原と、乾いた砂地では、足運びの微妙なバランスが変わってくるように、適時、状況にあわせた生体機能のオペレーションが必要となってきます。

 生物にとって、設計図である遺伝子に対し、この役割を果たすための、いわば現場監督の役割を担うの機関が「脳」になります。

 そのため、脳は常に世界の環境を把握し、その環境に自己を適合させていく機能が求められます。つまり、脳とは生物体内で完結するクローズ系のシステムではなく、常に外界と繋がりを持ち、外部と内部の情報の不一致を調整していくループバック機能を有したオープン系のシステムであるといえます。これをいくらか修辞的に表現するなら、「脳は世界と一体化することを欲する」のだといえます。

 さて、ライオンが己の遺伝子的特性をフルに発揮し、生存欲求を充足させるためには、まず自分が置かれている世界の在り方を正確に把握しなくてはなりません。そこで情報収集を行うわけですが、それを直接的に行うのは、視覚や聴覚といった感覚器官になります。これら感覚器官で得られた情報が電気信号として、神経を介し、脳に送られることは、脳神経学の分野で、よく知られた事実です。

 ところが、脳はその全ての情報を有効に活用することができません。なぜなら、世界のあらゆる情報を、無制限に取り込むには、脳の情報処理能力はあまりにも貧弱だからです。これは前線の戦場と、本国で指令を出す司令官の関係のようなもので、そのため、ライオンは脳のアルゴリズムに沿った基準によって、情報の取捨選択という世界認識の加工を行います。
 たとえば、ライオンがサバンナの土の匂いであったり、雨の匂いであったり、風に含まれるガゼルの匂いであったりを感知したとします。この時、いうまでもないことながら、ライオンの鼻腔内に、雨の匂いを感知するための特別の嗅覚受容体が存在するわけではありません。
 嗅覚受容体が察知するのは、空中に浮遊する化学物質です。具体的には、雨の匂いであれば、ペトリコールやオゾンやゲオスミンを感知し、それらの情報が有機的に統合・再構成されることで「雨の匂い」と判断されることになります。

 同様に、ライオンの風上にガゼルがいたとしましょう。その時、ガゼルの匂い成分は、風に乗って、ライオンの嗅覚受容体に運ばれ、いくつかの化学物質として感知され、それに対応した電気信号が脳に送られます。しかし、嗅覚受容体は同時に土の匂い成分も、草の匂い成分も、電気信号として脳に送っているわけで、そこに恣意的な区別はありません。

 ところが、先述しましたように、いくら現場の情報収集員である感覚器官が電気信号を送ろうとも、上位機関である脳には処理能力の限界があるため、それら全ての信号を取り上げるわけにはいきません。そこで必然的に情報の優先度に従った取捨選択が行われることになるのです。

 この場合、ライオンにとって、生存に必要な欲求(獲物はどこだ!)に関連した情報の信号がピックアップされ、それを再構成することで、ライオンは風上にいるガゼルの存在を認知するわけですが、その取捨選択の際に「捨てられた」電気信号は、通常、「意識されないもの」として、存在を無視されます。

 これは、私たちが普段、特別に「注意」を向けなければ、自分が今いる部屋の匂いを意識できないのと同様のことです。そして、この事情は聴覚や視覚といった他の感覚器についても変わりません。
 この脳内リソースの有限性からくる、世界認識の取捨選択プロセスこそが、筆者の定義する「思想」になります。

 つまり、ライオンの脳はあらゆる電気信号の洪水というカオス的世界のなかから、「(生きるために必要な)獲物となるガゼルをみつける」という文脈(原始的段階の思想)を取り入れることによって、無駄なノイズに惑溺することなく、世界を認識可能にします。しかも、その単純な世界認識すら必ずしも正確でないことは、たとえば、実験としてガゼルの匂いと同じ化学物質を鼻腔内に散布した時の、ライオンの脳神経細胞がどのように反応しているかを観察すれば明らかでしょう。

 人間が生物として、特異であったのは、前頭葉と呼ばれる部位を高度に発達にさせ、メタ認知を身に付けることにより、この脳内の取捨選択プロセスの客観的観察に成功したことにあります。そのため、人類には「世界を理解するための文脈」を自己と切り離したうえで、時に神話、あるいは物語として記述し、他者と共有するが可能になり、そのいわば虚構を共有する能力(いわゆる認知革命)によって他の生態系を圧倒する王者の地位を占めることができたのです。

 このことは筆者にとって、思想とは、根源的レベルでは絶対的に理解不可能なはずの世界を理解するためのツールであることを意味します。逆にいえば、生物は文脈(思想)というフィルターを通すことでしか世界を意味あるものとして認識することはできないとすらいえます(繰り返すようですが、電気信号を意味として繋ぐ文脈が存在しなければ、それらはノイズの洪水に過ぎません)。

 しかし、本来、世界とはカオスの塊であり、あらゆる事物が相関しあいながら、時には矛盾すら常態として、ごく当たり前に存在します。そんな複雑で、多義的で、可変的な世界を、「思想」として、ひとつの読み方に固定してしまうことは、脳の処理能力の限界から仕方のないこととはいえ、世界そのものの在り方から、多様な象徴性とダイナミズムを奪い、硬直化したものにします。結果、世界は思想によって読み解かれることによって、生命力を失い、必然的に「誤謬が不可避なもの」になります。

近代科学による‟真理”という誤解


 そして、この事実は、近代科学が抱える根本的な欠陥をも示唆します。
 近代科学は、このカオス的世界から、個別の繋がりを切断し、客観的事物を取り上げることで、そこから因果関係を見出し、再現性を担保する技法です。
 しかし、これらの「個別性」「客観的」「因果関係」という操作は、実験室のような人工的環境において機能したとしても、必ずしも現実世界に適応できるとは限りません。むしろ、科学を過度に偏重する思考方法が、現代社会における課題解決をかえって困難にする局面が多々あります。

文脈図

 上図をご覧ください。
 図において、仮に世界に存在するあらゆる事物とその相関性を図aで表すなら、人間の認知は、図bのように、そこから「“系”を取り出す(=必要な情報をピックアップし文脈で繋ぐ)」ことで、世界を認識します。しかし、同じ世界であっても、情報の選択によっては、図cのように異なる世界認識がされます。また情報そのものが同一であっても、図dのように異なる文脈で読み解かれた場合、やはり世界認識の不一致が生まれます。
 これらは世界の実相を正確に把握できていないという意味では等しく間違いといえ、同時にいずれも主観的真実を宿しているともいえます。

 科学的思考が犯しがちな誤謬のひとつがここにあります。

 たとえば近代的な裁判制度は、啓蒙思想という科学的思考の所産のひとつといえますが、ここには、ある事象を取り上げ、そこに立証と反証といったあらゆる角度からの光源を照射して逐一検証することで、その事象の持つ本質的「真実」を浮かび上がらせることができるという考え方が背景にあります。これは人間が有限性の存在であることを前提にしたうえで、社会制度を維持するという目的から運用するならば、非常に合理性の高い仕組みといえます。
 とはいえ、前述したように、文脈を離れた「客観的真実」などというものは存在しません。問題は、それにも関わらず、現代人は直観的な類推から、あらゆる「対話」にも同一のフォーマットが適用可能と考えることにあります。そのため対話は時として事実に対する主観的解釈の押し付けや、ひどい場合には、ただ相手を論理的に論破することが自己目的と化した空論になることすら珍しくありません。
 「対話」による「相互理解」とは、単なる情報の交換や唯一絶対の真理を決定する場を意味するのではなく、むしろ相手がどういう主観的文脈によって事物の意味づけを行っているかについて、相互に理解を及ぼす行為であり、科学的思考とは全く異なった原理の作業であるといえます。

 また次の図において、図aは、世界から「原因と結果」を抜き出したものになります。

因果ループ

 しかし直線的な因果モデルは世界を理解するための特殊な一形態に過ぎず、図bでみるように、世界とは、あらゆる関係性が循環しあいながら複雑に絡み合っているのが本源的な在り方です。
 単純な因果系であれば、課題解決のためには、原因を究明し、悪影響を与える要因を排除することで、結果を変えることが可能です。ところが、世界の実相においては、原因の改変はあらゆる方面に拡散され、しかも結果がループすることで、それ自身が原因として再生産されます。そのため、安全保障を目的とした軍事介入が、かえって軍事緊張を高めるといったように、因果モデルによる課題解決策そのものが、かえって事態を悪化させることが少なくありません。

東洋的知の体系とは

 これらはあくまで一例ではありますが、このように科学的思考は決して万能ではありません。だからこそ、世界平和の実現のためには、科学とは異なる知の体系が必要とされます。その知の体系は、必然的に、事物の「関係性」と「主観性」を重視し、「動的」かつ「総合的」に世界を把握しようとする思考法となります。そして、そのような世界本質の把握法は、本来、仏教や古代中国哲学に代表される東洋思想に伝統的なものでありました。つまり近代的科学思想を便宜的に「西洋の知」とするならば、そこに「東洋の知」をもって補完させていくことが世界平和の実現のために必須であるというのが筆者の考えになります。
 もっとも東洋の知は、「技法」という意味での方法論(メソッド)において脆弱であり、実用性という点で西洋の知に遥かに及びません。それは仏教の創始者である釈迦が「関係性」を重視し、相手の理解力にあわせて説法の内容を変えた(仏教理論を標準化しなかった/できなかった)ように、東洋が西洋文明に圧倒された理由であり、東洋の知の長所であると同時に短所でもあります。そこで、いかに東洋の知を、西洋の知のエッセンスを援用しながら技法化していくかが、この論考の課題のひとつになる予定です。

 今回の更新はここまでです。
 次回は、東洋的知からみた性善説と性悪説、さらには愛国心についての記事を更新する予定です。
 実のところ、私的にこういった探求をするというのは非常に孤独な作業であるため、この記事を読んで少しでも面白いと感じて頂けた方は、応援する意味でもフォローして頂ければ、すごく嬉しいです。
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