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「フェミニズム論争が争いを生み続ける本質的理由」という記事が書いてて長くなりすぎたので、一部を別記事にしてみた。

 この記事は当初、「ジェンダー論争が争いを生み続ける本質的理由」という記事の一部として書かれたものですが、あまりに長くなりすぎたので、別ページ扱いにしたものです。
 ですから、この記事だけを読まれても、筆者の意図を誤解されるかもしれません。


 できれば、上の記事から読んで頂くことをお勧めします。

本論

修正座標


 それでは、早速、女性の競争原理軸の引き上げが男女平等にならない理由についての詳細を書いていきたいと思います。
 先程も記事にあげた上の図をご覧ください。

 まず問題となるのは男性集団の下位層グループです。彼らは、女性の競争原理軸が男性と同水準に引き上げられた場合でも救済対象とはならず、それどころか、全体的な社会的位置のリポジショニングによって、あらゆる方面からみた絶対的な社会的弱者という不当な位置に貶められてしまう可能性があります。

 また、それと同様のことは、実は男性集団の中位~上位グループにも起こります。
 たとえば従来の社会においては、誰もが指摘するように、社会の最上位層は男性によって占められています。
 ところが社会の最上位層男性にとって、下位層グループは全て自分の地位を脅かす敵になりえるため、社会的地位が高くなるほど潜在的な敵が増えることになります。
 また、人生の多くは、将棋のように個人の能力だけで勝敗がつく決定勝負ではなく、麻雀やポーカーのように運のような不確定要素を含んだ非決定勝負です。初めての戦場で運悪く流れ弾に当たって死んだナポレオンが、後の英雄ナポレオン・ボナパルトたりえないように、どんな優れた人物であっても、時には理不尽としかいえない偶発的要素によって敗北者となることが往々にしてありえます。
 そのため、社会的上位層の男性が、下からの突き上げをくらい、なんらかのきっかけで最上位から中位層に転落した場合、人生の総合点は著しく下がります。
 歴史的にみても、ローマ皇帝の実に七割が暗殺などの不遇の死を遂げているのは有名な話ですし、たとえば現代においても、社内の派閥争いに巻き込まれた男性が閑職に追いやられたものの、家族を養うために会社を辞めるに辞められないというような事例は、(最近は一概には言えないとはいえ)容易にイメージできるのではないかと思います。
 一方で最上位層に位置する女性が、中位層に転落した場合、生き残り原理はプラス圏を維持したままなので、人生の総合点の低下は、男性に比べて少なくなります。

 つまり現代において、生きるか死ぬかレベルの問題は可視化しにくくなっているものの、男性は依然として競争社会への出場権として人生を賭けものにした高いチップを、参加費として支払い続けているのだといえます。なお、こういった構造は直感的には察知し得ても、厳密には言語化ができないため、男性がフェミニズム運動への違和感を端的に表現しようとすると、「男は命懸けで仕事してる」だとか「女は家庭に収まっていればいい」といった反発を招きやすい発言を惹起することになります。(補足記事終わり)

おまけ・伝統社会の大半で男性が支配的地位を占める理由

 せっかく、ここまで見に来てくれた方のために、これだけではなんですので、ちょっと余談的に本記事に載せられなかった話を書いておきます。

 伝統社会の大半で男性が支配的地位を占める理由についての筆者の仮説です。

その1・男性は支配することを求めた

 競争原理を基軸とする男性は「支配する(勝つ)こと」を求め、女性はそうではなかった。その結果、望むものがそれを得たのではないかという仮説です。

「キミにこの強固な海が支配できるか!?」
「支配なんかしねえよ この海で一番自由な奴が海賊王だ!!!」
――ワンピースより

 これ、ワンピースの名シーンとして取り上げられることが多いやりとりですが、筆者の考える母性原理のストロングポイントが象徴されているように思います。

 つまり、もしこれでレイリーが「生意気なこと言うな」って怒りだしても、ルフィは「うるせえな」って言って逃げればいいだけなんですね。
 「支配もしないし、自由であればいい」って宣言しているので、("上位者"であるレイリーから)逃げたとしても、それは負けたことにならない。
 だからレイリーとしても、この瞬間に、将棋でいえば「勝ち筋なし」となって、投了。ルフィを認める流れになるわけですね。

 勝負の土俵から降りることで、結果的に勝つ。
 母性原理が持つ「強さ(つよさ)」とは異なる「強かさ(したたかさ)」は、これからの時代、ますます重要になってくるのではないかと思います。
 完全に余談でした。

その2・母性原理だと社会規模の認知的限界点がある

 かつての日本には夜這いという風習がありました。

 おそらく古代の妻問い婚(夫婦が同居せず夫が妻の実家に通う形式の婚姻)に淵源を持つと思われるのですが、面白いのは、夜這われた女性が妊娠した時、その父親が誰であるかは厳しく問われなかった点です。
 子供は共同体の子として育てられ、地域によっては、妊娠した女性側に父親を選択する権利が一任されており、しかも男性側に拒否権はなく、それで村社会が問題なく運営されていたそうです。

 この夜這いという風習は、一説によると、人類社会が母系社会であった頃の名残であったとされ、おそらくそうではないかと筆者も考えるのですが、このような社会では、共同体規模の限界が自ずから決まっていたのではないかと推察されます。
 なぜなら、ある程度、血縁関係が濃密な集団においては、自分以外の子供であっても、それを養育する遺伝子的インセンティブが存在しますが、そのような社会を維持するためには、遺伝子はバラまくのに、共同体全体での子供の養育には参加しないフリーライダー(タダ乗り)を排除することが重要となってきます。
 ところが人間の認知能力には限界があるため、集団の人数がある一定のレベルを超えると、誰がフリーライダー(タダ乗り)かがわからなくなり、結果的に好き放題やられて、共同体は滅ぶのではないかと考えます。

 なので、社会が都市からクニへと大規模化し、発展していくためには、男性が女性を「所有する」という父系社会への転換が結構重要な意味を持ったんじゃないかなー、と。

 つまり、「何故、伝統社会の多くは男性優位なのか?」という問いかけは、ある種の人間原理(男性優位の社会だからこそ、その問いかけを行う知的主体が存在しえた)といえるんじゃないかと考えているのですが、ちゃんと研究できてないので、あくまで筆者の仮説として受け取ってもらえればと思います。

おまけの終わり

 実際の理由は、狩猟採集の生活形態がそのまま固定したことなど、複合的な要因があり、必ずしもひとつの要因に求める必要はない気はします。
 ただ、このあたりの話は、また時間ができた時に、本格的に深めていければなと、個人的な宿題と考えています。

 お読み頂き、ありがとうございました。



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