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盤谷おきらく日記vol.1身ひとつで単身タイへ渡るの巻

普段から過去記事の転載ばかりしているパーリーメイですが、やはりもともと書くことは好きだったようで、なんと最近かつて流行った?!Mixiなるものに久しぶりにログインしてみたら、過去も過去、太古ぐらい古い記事がワンサカ出てきて驚きました。まるでタイムカプセルで昔の自分に再会したかのよう。こういうネタを放置しておくはずもなく、性懲りもなくおもしろそうなものだけ今後ピックアップして紹介してみようかな、と思いたちました。

「次を表示」を押しても押しても出てくる過去記事、いったいいつまで?と思ったらなんと2004年の11月「初日記☆」という痛々しいタイトルまでたどり着きました。

20年近く前のオバさんの過去を、一緒に振り返っていただける方がいらっしゃいましたらうれしいです。ちなみに、タイのバンコク(盤谷)で仕事をしていたときの話が中心となります。大量、かつくだらなすぎる呟きも多いので抜粋がほとんどですが、せん越ながらシリーズ化していきたいと考えております。おつき合いいただける方は、何卒よろしくお願いいたします。

我がことながら、いったいどんな暮らしをしていたのだろう、といまから内心密かに興味津々です。蓋を開けるまで本当にどんな様子だったのか、詳細を忘れていたので。

それにしても、以前よりたまに漏らしていますが、若いっていいですね。仕事が決まるまでは家事も仕事もしなくていいので毎日行き当たりばったり、さまざまな人に会ってはいろんなことを楽しんでいたようです。社会人になると日々積み重なる予定やタスク、しがらみなんかがあり、そうそう来た話(遊びやちょっとしたお手伝いなど)をなんでも安請負いすることもできないですよね。


新卒の会社を辞めて日本を飛び出した若造

どうやら私は(もちろんそれくらいは覚えていますが、経緯などの記憶は薄れがち・・)新卒で勤めていた会社を1年足らずで辞め、単身当てもないままとりあえずバンコクに赴き、高校時代の先輩のご実家に転がり込んでいたようです。

2018年のアメリカ映画にケヴィン・クワンの小説『クレイジー・リッチ・アジアンズ(邦題:クレイジー・リッチ!)』というものがあります。これはシンガポールの華僑がいかにクレイジーに金持ちか、ということが如実にわかるストーリーですが同じ東南アジア、タイにもこの世界を地でいくひとたちが一定数存在します。

私が通っていた高校というのはそのタイのインター校なので、日本人生徒は普通のサラリーマン家庭出身が常ですが、タイ人生徒は桁違いの金持ち子息ばかり、というのが基本でした。

よって、そんな家庭に生まれついたひとりである先輩宅に居候していたので、当時のMixi日記には、これら“タイの華麗なる一族”のようなお金持ち集団の話がたくさん出てきていました。

先輩はタイ人のお母様とロシア人のお父様を持ち、日本人を含めた外国人が多く住む、立地もよくて閑静な住宅地に住んでいました。立派な門がついた一軒家のガレージにはベンツやらなんやらがすでに3台あり、もちろんそのほかにもあったことでしょう。

私の部屋は離れに用意されていたのですが、離れといっても2階建てで、もはやそれだけでもう立派な一軒家。ゲスト用なので、そんな広大な“一軒家”に私はひとりぼっち、貸切状態です。長い廊下にはシマウマの毛皮が敷かれ、ガラス棚にはお母さんが焼いたポーセリン食器が陳列されています。

正直、夜にシャワー室まで行くときなど怖かったです(なんせ誰もいない!)・・。部屋にはフカフカのベッド(ベッドマットに高さがかなりあるやつ・・)に衛星放送つきの大きなテレビがあり、天井にはリゾート地でよく見かける優雅なファンが取り付けられています。なにからなにまで用意してもらって、いたれり尽くせりのホテル並、あるいはそれ以上でした。

食事はメイドさんが作ってくれるので上げ膳据え膳、食住には困らず。元日本大使なんかも遊びに来るような、そんな御家庭でした・・。

お金持ちタイ人宅でのホームステイ

11月のタイには「ロイクラトン」という灯篭流しの日があります。町ではあちこちでバナナの葉でできた灯篭が売っており、突然爆発みたいな音が聞こえたと思ったら花火が上がっていました。

先輩は金持ち子息にありがちな?(実態はさほど知りませんが)かなり気ままな暮らしを営んでおり、毎晩のように飲み歩き昼夜逆転のような生活をしていました。

実際にどんな感じか、とある日を例にとりますと、私が13時にお昼を食べていても起きてこず、夜はなぜだか先輩のお父さんとふたりでディナーをして(お母さんどこ?!)、私はそのまま食後に犬の散歩を(庭でこと足りる広さ)一緒にして部屋に戻りました。いつの間にか先輩はパーティー(なんの?!)でいなかったので、私はもうシャワーも浴びてすっかり寝る体勢に。

そうしたら先輩が帰ってきて「いまから飲むけど?」と言います。てっきり下でお父さんとウォッカでも飲むのかと思ったので、私は部屋着にメガネのままで行こうとしたところ「え、それで?!い、いいけどさ・・」と言われてしまいました。聞けば、またNo.53という行きつけのバーに行くらしい。

当然そんな格好では行けないので私は慌てて着替え、かつ化粧までしなければなりませんでした。そしてまたいつものように2時過ぎまで飲んでおり、居候の身なので途中で抜けたくても足がないので一緒に帰らないといけません。

皆さん私に気を遣って、英語や日本語(単語)でときおり話しかけてくれるのですが、それ以外はタイ語オンリー。この当時はタイ語でおしゃべりできるほどのレベルではなかったので(私のタイ語は現地で就職してから身につけました)、すぐに眠くなってしまい(かつこの時間・・)「これはリスニングの練習だ!」と自分に喝を入れながら必死に睡魔と戦っていました。居候の身も辛い(贅沢言うな)。

在住日本人からのアドバイス

日中は少しでも職探しに繋がるよう、いろいろなツテであれやこれやと人に会っていた模様。ある日などは、やはり高校の同級生の元チューター(家庭教師)の日本人にアドバイスを求めに行っていました。

彼はいつのまにか以前の旅行代理店を辞めて、自分で学習塾を開いていました。立派な1室を借り、やっと軌道に乗せたそうです。 このときいったいどのような話をされたのかが書かれていないので不明ですが、なにやらやけにショックを受けたよう。日記には

「いかに私が日本人的発想で動き、タイという社会を知らなかった=甘かったか、ということが改めてわかった。今日得た教訓は「(タイでは)人を信じるな」。なんとも悲しい話で、傍から見たら「そんな嫌な国で働かなくても・・」って思うだろう・・」

な、なにを聞かされた自分?!

推測するに、もともと日本から応募していた某ホテルの採用についてだと思われます。そもそもなぜこのような行き当たりばったりなことを当時していたかといえば、実は「内定取り消し」を一方的に受けたからでした。

「とにかく私が「あのホテル」の言うことを鵜呑みにして、仕事まで辞めちゃったことは本当に、実に単なるお笑い種でしかないってことなんだよね。」

と、なにやらいかにも初々しい?未熟な自虐、反省をして?落ち込んでいる様子です。さて、いったいその後どうなったのか?

私もいまはその先の日記を開くまで分からず、この新シリーズがいったいどこへ向かうのか、制御不能でまったく読めません😂

なんとも実験的で、危険なかほり漂う若かりし頃のパーリーメイによる新シリーズ、はじまりました。いつもながらの不定期更新ですが、よろしければおつき合いください。

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