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【小説】想い溢れる、そのときに(終)


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第一話とあらすじ





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 およそ三か月ぶりにノックの音が聞こえると、窓際に座っていたダボはドアの方を見て微笑んだ。

「どうぞ。」

 外の光と一緒に中に入ってきた真香は、手に小さなブーケを持っていた。真香の部屋の窓のステンドグラスと同じ、薄いピンク色の花と一緒に、いくつかの緑も束ねて優しく握っていた。

「どれくらい?」
「大体三か月、かな。久しぶりだね。」

 アジョナに触れたあと、真香はずっとダボの家を訪れなかった。母親の気持ちの揺れ動きを目の当たりにして、それでも前を向こうとしている彼女のことを信じてみようと、ただ毎日庭の花の様子を眺めていた。どうしてもダボのところへ来て母親の現在を知りたいと思っても、淋しさを押し込めてただ見守ることが、母親はもちろん、自分自身も前進させる為に必要なことだと感じていた。

「今の庭はこの花でいっぱいなの。とても、気持ちがこもってる。」

 ダボはゆっくりと近づくと、そのブーケを手に取ってじっと見つめた。

「良い花だ。ダイヤモンドリリー。真香、良かったね。」
「あとね、これはハーブ?最近門の近くに生え始めたの。刺々しているんだけど、爽やかないい匂いがする。」

 ブーケの中に何本か、細いリスの尻尾のような葉が束ねられていた。ダボはそれを見ると、少し驚いた表情を見せたあと、真香の頭を二度撫でた。

「その葉はお茶にしようか。」

 二人はいつものテーブルに向かい合わせに座ると、ダボは先ほどの葉を枝から取り、一枚一枚空のガラスのポットに入れていった。

「これはローズマリーだよ。肉料理の臭み消しや、古くは化粧水なんかにも使われていたんだ。」

 真香もダボの真似をして葉を一枚ずつポットの中に落としていった。頭の中が澄み渡るような涼やかな香りが指先から香り始めると、真香は目を閉じて深呼吸をした。

「そのまま飲むと少し香りが強いから、いつものミントと一緒に淹れよう。」

 ダボがキッチンからミントの葉を持ってくる間、真香は部屋の中を見回した。アジョナの姿が見当たらない。いつものお皿も、空のまま部屋の隅に置かれていた。

「ローズマリーの花言葉はね、『変わらぬ愛』、そして『追悼』なんだよ。」

 ケトルの中の熱湯を注ぎながら、ダボは続けた。

「君がこの先に進むことを、彼女も心から願ってくれている。その証だ。もちろん『変わらぬ愛』を以って。」
「そっか。」

 じわじわと色づいていくポットの中を眺めながら、真香の心は少しざわめいていた。母の踏み出した勇気ある一歩に、自分は続くことができるだろうか。この先に待ち受けるものが何なのか、自分の魂がどうなっていくのか、何よりもこの記憶や感情が失われるかもしれないということに、言いようのない焦燥のようなものを感じていた。

「さぁ、ここでお茶をするのもこれが最後だ。」

 数回ポットを回したあと、ダボは真香と自分のカップに淹れたてのハーブティーを注いだ。湯気と共にふわっと透き通る香りが広がった。

「準備が整ったんだ。このお茶を飲み終えたら、君は次に進めるよ。」
「ここを出ないと、いけないの?」
「うん。」
「そう…。」
「怖い?」

 少し考えたあと、真香は微笑みながら首を横に振った。

「ううん。多分、大丈夫。…大丈夫って、お母さんも言ってくれてるから。」

 ダボは少し眉毛を下げ気味に、いつもの優しい微笑みで真香にカップを差し出した。
 ふーっと息を吹きかけて、冷ましながらひと口飲み込むと、先ほど嗅いだ香りが鼻腔に突き抜けてくる。不安も恐れもどこかへ飛ばしてくれるような、清涼な風が頭の中に駆けていった。

「お母さんは、もう淋しくない?」

 心の奥底に溜まっていた色々が、ローズマリーの香りに押し出されていくように、真香の瞳に涙が溢れ始めた。

「どうかな。淋しさというのは、線ではなく点だから。続くものでもなければ、それっきり出てこないものでもない。全ての感情はみんなそうやって成り立っている。」

 涙が一粒零れ落ちるたびに、真香の中の感情が一つずつ中から消えていくように感じた。それでもそれは失われるどころか、次から次へと溢れ出てきて止まらなかった。

「でもね真香、覚えておいて。人が淋しさや不安を強く覚えるのは、大切な人がそばにいないときよりも、どこにいるかわからないときなんだ。」

 うん、と頷いて、真香はまたひと口お茶を飲んだ。今度は少し緩やかなミントの甘さも感じることができた。

「君がこの先に進むことを、やっと彼女も願えるようになった。それは彼女、…お母さんが、君の居場所を知ったからなんだ。どこかわからないところに行ってしまったのではなく、今君の魂がここにいることを、お母さんはちゃんと理解して、認めてくれた。」

 自分の中の様々な気持ちが、こんなにも豊かなものだとは思っていなかった。溢れ出る想いの一つ一つは全て表情が違っていて、涙と共に蘇るその感情のすべてが、愛おしくて堪らなかった。

「だから少なくとも、君がどこにいるのかわからない淋しさは、無くなったんじゃないかな?もちろん、君の不在に対する淋しさは、この先何度も訪れると思うけどね。」
「それはちょっと、嬉しいかも。…嬉しいは、変かな?」
「変ではないよ。愛を感じられるよね。」
「うん。」

 涙を流しながらふふっと笑って、真香はまたお茶を口にした。ごくりと喉を鳴らすと、身体の中から少しずつ軽くなっていくのを感じた。止めどなく湧き出る感情がどんどんと増えていって、流れる涙にも追いつかなくなって空へと舞い上がっていくような感覚だった。目の前のダボの姿が、黄色い光に包まれて次第にぼやけていった。

「怖くないよ。君という存在も、君がこれまで抱えてきたすべての想いも、こうやって世界に溶けて一つになっていく。君がいなくなるわけじゃない。愛する人の心の中、木々の擦れる音や風の匂い、光の粒や水の流れ、あらゆるものの中で君の想いは生き続ける。」

 真香の身体は徐々に光に飲まれていった。上へ上へと舞い上がり続ける想いたちと一緒に、真香は自分が空を飛んでいるような気分になった。目を閉じると、あらゆる世界の想いが自分と溶け合って、その境界線が曖昧になっていった。そこに恐怖は少しもなく、むしろこれから先どんなことが待っていようとも、そこに溢れる想いの全てが私そのものであるという揺るぎない確信に満ち溢れていた。

「お母さんの気持ちと共に、いってらっしゃい。真香。」

 目の前から、青年の声が聞こえる。マナカは誰かの名前だろうか。私はこの人に、何か言わなければいけないことがあった気がする。私? 私って、何? この人って、誰?。

「ありがとう、ずっと、色々と。あなたの、花、また」

 薄まる自我の奥底から、真香は何とか言葉を掬い上げてダボに届けた。一瞬驚いた表情をしたダボの目の前から、眩い光の塊達が一つずつ天井を抜けて消えていった。部屋の中に静寂が戻ると、壁に掛けられた時計の振り子の音だけが、均等に空気を揺らしていた。

「真香は最後まで優しいね。ありがとう。…安らかに。」

 窓の外を見ると、ダボの目にオレンジ色の小さな花の姿が飛び込んできた。ダボは思わず息を飲んだが、次の瞬間にはただ風に揺れる緑の葉ばかりが広がっていて、一気に噴き上がった冷や汗と共にダボは長く息を吐いた。
 自分を思い出してくれる魂は、とうの昔にみんなあちらに行ってしまった。自分が送り出したこともあった。花が咲くことは、二度とない。

 庭の向こうから、駆け足で毛玉が近付いてくるのが見えた。白い光に反射する黄土色は、いつか見た気がする小麦畑のそれに似ていた。ダボは懐かしむように目を閉じて、唯一欠片を持ち続けている記憶を朧げながら思い出していた。あの場所で名前を呼んでくれた人の魂だけは、見つけることができなかったな。
 窓を開けると、駆け足の勢いそのままに、両手で収まるくらいの小さな猫が部屋の中に飛び込んできた。焦茶色の瞳は忙しなく周囲を見回してから、ダボの方を向いてひと声鳴いた。

「そう、これからよろしく、アジョナ。僕の名前はダボだ。」

 猫としばらく見つめ合ったあと、ダボはそっと顎のあたりの毛を撫でた。

「君はよく食べそうだね。」


 微笑みながらキッチンへ向かうダボの後ろを、アジョナは跳ねるように追いかけていった。

(終)

食費になります。うれぴい。