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住めばただの俺んちになるからサウナには住まない

もはやサウナは自分の生き甲斐のひとつですが、じゃあ、もしもどこでも住めるとしたらサウナに住みたいのかといえば、実はそうではなかったりします。

あくまでサウナは非日常であり、家や職場とは違う場所で、家でも職場でも現れることのない自己を解放するための施設なので、毎週のように行きたいが、ならば毎日いつでも入りたいのかというとそれはまた違う。

豊かな生活を送るにはメリハリを付けることが大事であり、ハレの日とケの日の区別を付けなければならない。

ずっと楽な環境下に居すぎると、人間はそれに甘えて身体がなまっていくし、かといってあくせくと働き過ぎれば、身体を壊してしまう。

自分の場合は、出勤の日は完全にケであると割り切っており、仕事帰りにスーパー銭湯に立ち寄るということも基本的にはしない。

まあ、近所に温浴施設がひとつしかなく、そこは地元でかなり人気がある店舗なので、ばったり知り合いに出くわしたりしたらなんかイヤ、という理由も大きいのですが、風呂屋およびサウナは休日のお楽しみというライフサイクルが、ここ半年ほど出来上がっているのです。

以前は地元に一般銭湯がもう1軒あって、知る人ぞ知るような路地にひっそりと佇む隠れ家的な立地でお気に入りだったのだけど、閉業しちゃったんだよなあ。

あそこ、小さいけど露天もあって、ロビーにジャンプも置いてあって良かったんだけどなあ……。

大阪の生野区や京都の紫野周辺みたいに銭湯が密集している地域にお住まいの方が羨ましいという気持ちもあるものの、自分にとって銭湯は現実逃避スポットという側面があるので、やはり今の状況で良いのかもしれない。

住むということは、その場が自分のものになるということであり、自分のことがを俯瞰で見ることができないのと同じように、自分の家を客観的に見ることは段々できなくなってくる。

20数年前、新築のマンションに引っ越した時はものすごい感動があり、ここはエルドラドかシャングリラかと思ったものですが、3年もすればただの俺んちになり、当初は素晴らしいものに見えたフローリングの床はただの普段の床になり、ステンレスの風呂場はただの普段の風呂場になり、南向きのベランダはただの普段のベランダになってしまった。

新築のマンションに慣れたら、今度は一軒家に憧れ、クレヨンしんちゃんの家のオシャレな階段を羨ましく思っていました。

あ、クレしんクラスタならご存知でしょうが、知らない方のために説明すると、あそこの階段って、螺旋状でオシャレなのです。

でも、実際に螺旋階段のある2階建てのガレージ付き一軒家を手に入れ、白い子犬を飼ったとしても、それは野原ひろし邸ではなく自分の家ということになり、自分は野原ひろしにはなれないので、やはりそれは憧れていたものとは別のものということになります。

なんだか、深淵を覗いていたら自分が深淵そのものになってしまった、みたいなややこしい話になってきてしまいましたが、つまりは、自分と遠いところにあってこそ、真の輝きを見ることができるということです。

たとえば、明日の朝いきなり美少女になっていたら、その瞬間はテンションが上がるかもしれませんが、慣れてくると自分が美少女であることが日常で、当たり前でつまらないものになり、美少女になるという夢はそこで潰える。

それならば、いっそ美少女にならないほうが良い。

まあ理想としては、心は男のままだが水を被ると女になっちゃうふざけた体質になることで、そのためにいずれは呪泉郷を訪れようと思うのですが、それには辛い修行が必要なのだそうです。

その修行に耐えうる肉体を作るべく、今日も100℃のサウナで8分間、15℃の水風呂で2分間ねばる。そして訪れる、喜怒哀楽すべての感情が整った合法キメキメタイム。
 
日常に於けるどんな出来事も、この瞬間を彩るために作られた脚本と演出なのではないかとまで思える。

映画なぞ観なくても我々は生活していけるが、それでもわざわざ劇場に行く。

いわば自分にとってのサウナはそれと同じで、スリルや感動を求めているのです。

映画の場合はクソつまらんかった金かえせということもありますが、サウナは裏切らない。今日も感動をありがとうと独りごちながら家路に帰ります。

……住みたくはないし、知り合いに遭遇したくもないけど、やっぱりもうちょっと近所に1軒ほしいな。

サウナはたのしい。