十三でトラウマに変わった初任給
22歳の4月の末、銀行口座にいくらかのお金が入りました。
就職してから初めてのお給料、いわゆる初任給というやつです。
4月1日に入社しているので、原則的には5月に振り込まれるはずですが、3月に少しだけ研修期間があったので、そのぶんだけ4月末づけで振り込まれていました。
さらに自分は入社日の2日前、ギリギリのタイミングまでコンビニでバイトをしており、大学は1月に卒論を提出してからはもう卒業するだけという感じでシフトを入れまくっていたので、その分も振り込まれており、なかなかにガッポガッポな状態でした。
そんな浮かれモードで突入したゴールデンウィーク、まず、少しはそういうちゃんとしたことにしようと、親にいくらかの現金を渡しました。ふつうなら食事を奢るとかなのでしょうが、どうにも当時の自分には恥ずかしくてできなかったのです。
すでに会社に対して疑念を持っていて、近いうちに辞めることも視野に入れていたことを思うと後ろめたかった、というのもあります。まあこの頃にいた部署はなんやかやで続き、問題はその出向先の会社の体制だったわけですが、……。その話は長いので割愛。
まだ春先の入社1年目の自分には、希望のほうが遥かに多く、仕事も初めてのことだらけでしたが、会社の帰りに出会う梅田の銀世界もまた、初めてだらけでした。
なにせ、それまで未知の場所だったキャバレークラブというものにクラクラ、誰かよくわかんない女の人とLove Affairな秘密のデートっぽいことをし、マリンちゃん(仮名)に愛されて、よくわかんないバーボンで酔わされて、終了5分前に黒い服のよくわかんない言葉遣いは丁寧だけどキレたらめっちゃ怖そうな男の人に延長しませんかと唆されて、終電と共にこの首筋に夢の跡。
そんな夢の花を体験し終えたゴールデンウィーク間近。会社の人との付き合いではなく、今度はプライベートで……。上司に気を遣わなくていい場面で、思う存分キャッキャウフフしたい。
なわけで、なんとも親不孝な話ではあるのですが、家には現金だけをパッと預け、自分が初任給でしようと企てたことといえば……、ゲスっぽくいえば、夜遊びです。
学生の頃にも歓楽街の近くには行ったことがあったし、なにせ大阪のサブカル野郎の聖地であるまんだらけは、そういう地域のド真ん中。いわゆる客引きなんかもされたことはあったものの、自分にはまだ早い気がして、ずっと躊躇していました。
しかし、もう就職して社会人となったのだから、自分は立派な大人。そもそもとっくに18歳も20歳も過ぎているのだから、酒もタバコもパチンコも競馬もできるし、夜のいかがわしいケバケバしい魔境にだって、合法的に入れるわけです。
しかも、自分が汗水を垂らしてブラジル人の社長に頭を下げて営業をかけて稼いだお金を使って。
そんなわけで意を決して、大阪最大級のバビロンシティ梅田……、の、ひとつ前の、十三駅で下りました。じゅうさん駅ではありません。じゅうそう駅です。
じゅうそうは大阪市淀川区の南西に位置する地域で、昭和の佳き雰囲気の漂う繁華街です。今は梅田に取って代わられましたが、かつては新宿の歌舞伎町に並ぶほどの有名な夜の街だったそうです。
椎名林檎さんの『歌舞伎町の女王』を脳内で流しつつ、大阪の歌舞伎町たる十三のディープな世界へとレットミーゴー。JR新宿駅の東口を出たところが歌舞伎町ならば、阪急十三駅の西口を出たところもまた歓楽街。
ホットでグレートな場所へ繰り出そうじゃねえかと、意気揚々として入ったのは、商店街をクネクネと彷徨ったところにあったセブンイレブン。……ん?
そこでなんか100円くらいのやっすい発泡酒を買い、人の多い十三の街で歩きながらラッパ呑み。
昼間から開いている居酒屋の多いここでは酔いどれそのものはたいして珍しくもないが、歩きながら酒をかっ喰らっている奴というのはなかなかレアだ。
俺ってアメリカン。などとイキってみたのは、別にポケットウィスキーを一気呑みするのが趣味のマカロニウエスタン(偏見)を気取りたかったわけではなく、ひとりでお姉さんたちがいる店に入るのが恥ずかしいので、ある程度の景気付けが必要だったのです。
さすがにウィスキーを外で煽れるほど振り切れてはいなかったので、アルコール5%くらいの缶を片手にグヘヘヘへとやってみたわけよ。グヘヘヘへ。
しかし困ったことに、ウィスキーの一気呑みをするほどに強い肝臓は持っていないものの、5%のアルコールを含んだところで常識は超えられない程度にはアルコール耐性があったもので、なかなか踏ん切りが付けられない。
そんなわけでもっとアルコールを入れようと、入り込んだのはよくわからないバー。
いやあれはパブというものなのか?とにかくよくわからないけど、よくわからないまま、よく知らない、とりあえずそこに名前があった酒を注文しました。
カウンターの横には大きなモニターがあり、なぜだかゆらゆら帝国のPVが延々と流れていた。どうやらバーのママの趣味らしい。ママといってもかなり若く、当時の自分よりは年上っぽかったものの、たぶんまだ20代。
にもかかわらず、ママは音楽をたくさん知っていた。なんか洋楽の話もされたような気がするが、日本のバンドでいちばん好きなのはゆらゆら帝国らしい。自分もゆらゆら帝国の独特な中毒性は好きだとかなんか話を合わせた。ゆらゆら帝国の曲を2曲くらいしか知らんくせに。
謎の強い酒とサイケデリックな音楽に揺さぶられた後で、ふらりふらりと再び十三の街を辿る。
さっき歩いていたのと同じ街のはずだが、時間も時間なので、昼にはあまり感じられなかった、ネオン瞬く淫靡なかほりが色めき立つ。
そしてついに入ったは、いわゆる、お姉さんがいらっしゃるその手のお店。某大手消費者金融企業をパロった店名と看板……。
そこに入ってからのことは、なんとまあ、全く覚えていない。いやいやそこからが本題だろという感じだが、実際に覚えていないのだから仕方がない。とりあえずなんかピンク色の世界だったような気はする。
お姉さんの胸の谷間のかぐわしい輝きの記憶と、やはり初任給は親と食事に行くとか服を買うとかに使ったほうが良かったのではないか……、というグニャグニャした気持ちを胸に、茶色い阪急電車の中でひとり揺られました。なぜか、何かを失った気持ちになった。
初任給を何に使おうが個人の勝手だと思うので、親孝行ももちろん良いし、自分の欲望を満たすべく夜遊びに繰り出すのもありだと思いますが、ひとつだけ新入社員の方々に、僭越ながらアドバイスさせていただくとすれば。
「ご利用は計画的に」
まあ、15年くらい経ってもこれだけ覚えているのだから、あの4月のトラウマも無駄ではなかったのかもしれんが、なんともお恥ずかしくむず痒い。
サウナはたのしい。