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どうする家康 浜松にある悲劇の舞台をご紹介 築山御前 松平信康 お田鶴の方

2023年11月。
前回の岡崎市の神社巡りに引き続き、浜松の神社を巡ってきた。
岡崎市の神社巡りの記事もご覧いただけましたら幸いで御座います。👇

浜松を舞台とした、どうする家康の悲劇のエピソード

神社のご紹介は次回書くことにして、今回は合わせて巡ってきたどうする家康の悲劇のエピソードとして放送された舞台、それに纏わる場所をご紹介させていただく。
ドラマを見て史跡やエピソードに纏わる場所を巡るだけでも楽しいのだが、歴史の背景を少しだけ頭の片隅に置いておくだけでも、その場所の見え方が変わる。
私は歴史の専門家でもないし、研究をしているわけでもない。
あくまでも一人の歴史ファンの、旅行をより味わい深いものとするための一つの方法としてご覧いただけましたら幸いです。

今回思ったのが、浜松市は家康公ゆかりの地を巡る観光客が歩くであろう街角に、各地の方向を示す案内が細かに設置されていることに関心した。
街も活気があり、老若男女問わず親切で非常に礼儀正しい方ばかりだった為、素晴らしい旅となったことに感謝したい。


お田鶴の方 椿姫観音

では、まずはお田鶴の方おたづのかたのエピソードから始めて行く。
ドラマで演じるのは関水 渚せきみず なぎささん。
大高城おおだかじょう城代の鵜殿 長照うどの ながてるの妹。
鵜殿 長照は、大河ドラマどうする家康では改名以前の家康公、松平 元康が籠城していた大高城へ金色の金陀美具足きんだみぐそくを着用して兵糧を届け、鵜殿 長照の代わりに守備についた話を思い出す。

こちらが金陀美具足。

大高城内の場面で、疲弊していた兵達を励まし続けていた武将が鵜殿 長照。
そして家康の正室、瀬名とは幼い頃からの友人として描かれている。
夫は今川家家臣で引間城ひくまじょう城主、飯尾 連龍いのお つらたつ
詳細は省くが、ドラマでは今川家と敵対する家康との密通を今川 氏真いまがわ うじざねに疑われ、登場回で亡くなられた。
誰がそのようなことを言っているのかと聞いた飯尾 連龍。
今川 氏真が「そなたの妻じゃ」とニヤリと笑う場面は記憶に残っているのではないだろうか。
加えて今川にとらわれていた瀬名を逃がそうとしていた情報を、情に訴えて聞き出し氏真に漏らしたことも印象深い。
現代の感性では裏切り行為とも思える行動だが、これはただただ今川家への忠誠心の厚さと、自身の信念に基づいての行動だと私は考えている。

お田鶴の方の最期は壮絶なものだった。
夫の飯尾 連龍が殺害されてからはお田鶴の方が引間城を守る。
その後家康が引間城を攻め、落城寸前となったその時。
緋縅ひおどし(紅色)の鎧に白柄の薙刀、美しい黒髪に純白の鉢巻を身に付け、お田鶴の方は陣頭に立つ。
それを取り巻く同じく純白の鉢巻、たすき掛け、刃を手にした十八人の侍女を引き連れ家康の軍に立ち向かい、お田鶴の方と侍女達は城を枕に討ち死にされた。

ちなみに引間城は家康によって西側に拡張され、現浜松城へと整備される。引間城の跡地には元城町東照宮もとしろちょうとうしょうぐうが鎮座している。

元城町東照宮から約650m、徒歩で9分の距離にお田鶴の方が祀られる、椿姫観音つばきひめかんのんがある。

街の一角にひっそりと建つ。

お田鶴の方の勇壮な闘いぶりに家康は、侍女と共に手厚く葬り塚を建てたと伝わる。
家康の正妻の築山御前もその死を哀れみ、百株余りの椿を植えた。
この椿は毎年美しい花を咲かせ、塚は椿塚と呼ばれるようになり、お田鶴の方も椿姫と呼ばれるようになる。

観音堂内には祈願石。
様々な御利益を頂戴出来るとのこと。

堂内にはお田鶴の方に関する資料や、どうする家康に関しての記事が掲示されている。
綺麗に管理された御堂だ。
少々距離もあるし小さな御堂である為、訪れる方も多くはないのかもしれない。
だが、そこには勇壮な女性達の歴史が確かに存在する。
是非供養の念を持って訪れていただきたい場所だ。

松平信康 信康廟 二俣城跡

松平 信康まつだいら のぶやすは徳川 家康と築山御前の嫡男。
妻は織田 信長の娘の徳姫とくひめ(五徳)
9歳にして夫婦となり岡崎城で暮らし、家康が浜松城へ居を移した後に岡崎城城主となる。
勇猛な武将であり、数々の戦で武功をあげた。
その名も武功を認められ信長から一字「」を賜り、父家康から「」の一字を取り信康と改めた。
一方家臣もドン引きの、非常に気性の荒い面もあったようである。

ドラマでは徳姫との関係については匂わせる程度で深く描かれてはいなかったようだが、史実では不仲であったと伝えられている。
姑である築山御前との関係も同様で、折り合いが悪かったようだ。
ドラマでも築山御前に対して、不遜な振る舞いをしている様子も描かれていた。
信長からは岡崎城内を監視するよう命じられているシーンも印象的であり、父信長に対して夫信康との不仲、築山御前が武田家と内通しているとの書状を送るシーンが描かれていた。

信康と瀬名が戦無き世を夢見て、ゆかりのある人々に書状を出し、築山に招いて密談を交わす。
武田家家臣の穴山 梅雪あなやま ばいせつ唐人医師滅敬に扮しスパイとして潜り込んでいたが、瀬名に懐柔され志を共にする。
穴山 梅雪の仲介により、武田 勝頼たけだ かつよりも合意。
だが、勝頼の突然の裏切りにより計画が信長の耳に入ることになる。
謀反の疑いを掛けられ信長から家康に処分の命が下るが、処分については「お前に任せる」という残酷な言葉。
家康は苦心の末二人を逃す策を講じるが、瀬名と信康は自害の道を選ぶ。
というのがざっくりとしたドラマの流れだが、信康が自害した地が二俣城ふたまたじょうであったとされる。
信康自刃当時の城主は三河で一番の色男でお馴染み、小手 伸也こて しんやさん演じる大久保 忠世おおくぼ ただよ

様々な遺構が残る公園となっている。
天守石垣。

ドラマでは涙を禁じ得ない母子の感動的なシーンとして描かれているが、近年では異なる見解が語られている。
ご興味があればお調べ頂きたいのだが、信康に切腹を命じたのは他ならぬ家康自身とのことだ。
築山御前と信康は岡崎国衆への多数派工作を講じていたとされ、謀反むほん、所謂クーデターを企てていることが疑われた。
信康と家康との対立は深刻化しており、家康が信長にどうすべきか相談したようなのだが、その際信長が内情を酌み「信康を殺せ」ではなく「思うようにせよ」と答えたとされている。
そして二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じた。

信康廟入口。
この門の奥には三つ葉葵の紋が描かれた廟がある。

ここからは私の考えだが、史実はどうあれ私はドラマのエピソードが好きだ。
だからこそこちらを訪れようと思ったわけだ。
松平 信康は気性が荒く、家臣もドン引きするような振る舞いをしていたことも事実なのだろうが、戦場いくさばではとても頼もしい勇猛な武将であっただろう。
後の関ヶ原では家康が「せがれがいればこのような思いをすることは無かった」と言ったと伝わる。
それだけ家康は信康の才覚を認めていたと共に、恐れを抱いていたとも思える。
二俣城にて切腹する際には、最後まで城主の大久保 忠世に潔白を主張した。
介錯は服部 正成はっとり まさなり、またの名を服部半蔵。
ドラマでは「御免」の言葉と共に一刀のもと首を落とした。
だが史実では刀を振り下ろすことが出来なかったとのことだ。
後を追うように死んでいった家臣もいた。
その墓も画像の門内に共に弔われている。
一説では家康は質素な墓を建てるのみだったという話もあるが、画像の通り信康のために信康山長安院清瀧寺しんこうざんちょうあんいんせいりゅうじを建立し、信康の菩提寺としている。

家康の残した言葉。
寺入口には豊かな水。
清瀧寺入口。

画像に写る信康堂内には願掛け龍がある。
他に願掛けの紙があり、予め記載された願い事に丸を付け御堂左の紙が結ばれているところに一緒に結びつける。
更に蓄財運祈願の紙もある為、大切に財布の御守りとした。
訪れた際には是非こちらもお見逃しの無いよう。

駐車場は早い時間で短時間であれば本田宗一郎ものづくり伝承館前に駐車場がある。
ゆっくりされるならば、二俣小学校前駐車場が二俣史跡観光用駐車場として無料開放されている。

築山御前 終焉の地

徳川家康の二人の正室のうち、人質であった時に迎えた正室。
もうお一方は豊臣秀吉の異父妹の朝日姫。
この方も悲運の女性、ご興味があればお調べいただきたい。

いきなりだが、私は瀬名さんが好きだ。
歴史で語られる築山御前はもちろん知っているが、大河ドラマ どうする家康の瀬名さんが真実であってほしいと思う。
松平 信康の部でも述べたが、有村 架純ありむら かすみさん演じるドラマの瀬名という人物に惚れたからこそこの地を巡った。

家康が織田 信長と同盟を結んだ際に今川 氏真の怒りを買い、瀬名の両親は自害に追いやられている。
一説ではこの時から家康との確執が生まれたとの話も存在する。
今川との人質交換にて岡崎に移った際にも岡崎城内ではなく、少々距離のある現在の西岸寺辺りの寺院に居住した。

信康が岡崎城に入城した際に、築山御前もようやく岡崎城に入ることになった。
家康が浜松に移った際も、信康と共に岡崎城に残っている。
ドラマでは一緒に行こうと誘う家康に対して、瀬名が自ら幼い信康と徳姫を支えると残ることを決断している。

とても懐の深い女性として描かれたドラマ。
私の印象的なエピソードとして、家康のお手つきがある。
松井 玲奈さん演じるお万との回が、特に異彩を放っていたように感じる。
湯殿での髪漉きのシーンだが、カメラワークも相まってなまめかしい雰囲気を漂わせる。
私にしてみれば「そりゃお手つきするわ」と思うわけだが。
瀬名はお万と直接会うことにする。
その際にお万の自らお縄につくという策を見抜き許した。
その後お万はお腹の子は立派に育て上げると決意し、自ら身を引いていった。

ここで一旦古くからの築山御前の評判を書いていく。
非常に嫉妬深く、悪女であったとされる築山御前。
岡崎城ではなく寺院に居住させられた時には、離縁されていたという説すらある。
前述のお万との話も瀬名の懐の深さを演出しているが、お万が自らお縄についたのではなく、縛り付けられて折檻されたという話もある。
側室や妾を認めるのは正室が権限を持っていたのだが、お万は側室とも妾とも認められず、当然お腹の子も承認されず浜松から追放された。
築山では岡崎国衆と結託、武田家と密通しクーデターを企てていたとされる。
前述の唐人医師の滅敬を築山に囲い込み、不倫関係にあった。
好き勝手にボロクソに言われているが、これは築山御前を悪女に仕立て上げるために、大なり小なり脚色があったと私は考えている。

現在的に考えれば家康にとって築山御前が生きていることで何か不都合があったと考えるべきだ。
信康同様謀反の疑いが掛けられ、信長から「思うようにせよ」と処分を命ぜられる。
二俣城へ護送中浜松市佐鳴湖畔で自害を迫られるが拒否した為、家康の命で、家康の家臣によって首を刎ねられた。

このマップポイント部だが。

終焉の地を示す唯一の手がかりが強風で倒されている。

このような寂しい場所だ。
当時から景色が変わっていないであろうアングルで写真を撮影してみた。
ここでひざまずいて首を刎ねられたわけだ。
唯一この場所が終焉の地だと示す旗が立てられている程度。
毎年の法要は行われているようだが私有地なのだろう、徳川 家康の正室の最期の地としての整備は一切されていない。

この場所を訪れるにも、私有地を通らせていただく必要がある。
もし訪れる際には、地元の方への最大限の配慮をお願い致します。
通られる際にその地の所有者の方がいれば、必ずお声掛けしてからご通行下さい。

駐車場は付近に佐鳴湖公園 桜通り駐車場がある。
少々歩くが、是非訪れて実際に瀬名さんの最期の地を体感いただきたい。

ちなみに築山御前の首を刎ねた際の刀を洗ったとされる太刀洗の池という場所も近くにあったのだが、医療センターが拡張されて跡形も無くなっていた。
移設予定とのことだが、それで良いのかとも感じるが仕方がないのだろう。
築山御前の血が付着した太刀を洗った池は唯一無二だと思うのだが、移設すれば良いらしい。
非常に残念に感じるが、現代を生きる我々には医療センターは重要だ。

さて、築山御前の首は信長の元へ届けられた後、岡崎に首塚を建てて祀られた。
御遺体は浜松市の西来院に廟堂月窟廟が築かれ祀られた。

西来院入口。
月窟廟。
綺麗に管理された廟堂。

長くなってしまったが、冒頭にも書いたように私は歴史学者でもなんでもない。
ただの歴史ファンだ。
史実はどうであれ、様々な思いがあってもよろしいかと思う。
私はどうする家康で描かれている、お田鶴の方、松平 信康、瀬名さんが大好きだ。
クライマックスを迎えている大河ドラマ どうする家康
興味を持って家康ゆかりの地や史跡を巡ろうかなと思って頂いた方に、より深く楽しんで頂けるよう微力ながらライトな歴史好きの観点から記事にしてみた。
参考にして頂けたら幸いです。

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