見出し画像

あの秘密道具があったなら

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「伝えたい事は山ほどあるのに、全然伝わったような気がしない」

そんな事がこれまでに何度も何度もありました。

その度に、「なんでだろう?なんでだろう?」と考えて、自分達なりの仮説を立ててそこを修正してまたの機会に臨むなんて事をしてきたような気がしています。

そうやって修正しながらやってきた事で、どうにかこうにか伝わったり、やっぱり全然伝わらなかったりって事を繰り返しながらここまでやってきて、今はまた少し違った視点が手に入ったように感じています。

例えばこれを、“翻訳”と呼んでいたりするんですが、翻訳が上手く出来ると「伝えたいのに伝わらない」のギャップがどんどん埋まっていくのを感じます。

ただ、実際には同じ言語を使用している者同士の間で行われているコミュニケーションなので“翻訳”というのは実は全く相応しくない表現なのかもしれませんが、起きている現象を見るとこれが意外と的を射た表現なんじゃないのかなとも思うんです。

「伝えたいけど伝わらない」を、この“翻訳”という概念を当て嵌める前までだと、「伝え方に問題がある」という風に捉えていたような気がします。

もちろん、日本語としては何も間違っていないんでしょうしおかしなところは何も見当たらないのかもしれませんが、この「伝え方に問題がある」という捉え方だと、そこから先で出来る事は、「伝え方を工夫する」という、何と言うかあまり具体的ではないような改善策のようなモノしか考える事が出来なくなってしまっていました。

だけど、「伝えたい事が伝わらない」を、「“翻訳”が出来ていないのかもしれない」と捉えるようにしたら、「どの部分をどんな形に翻訳すればよいのか」と捉えて考える事が出来るようになってきたような気がするんです。

このニュアンスの違いが、上手く伝わっていたらいいなあと思うんですが、「伝え方に問題がある」というこれまでの自分の捉え方だと、そこには「自分自身の発信の仕方だけ」に焦点を当てていて、「発信方法をもっと上手にすれば伝わるはずだ」という視点が強く出てしまっていたような気がするんです。

だけど、「伝えたい事が伝わらない」というのは、あらためて考えるまでもなく「コミュニケーションに齟齬が生まれている」という問題です。

であれば、ここには「発信する側」と「受信する側」の双方向から考える必要があるんじゃないかなと思ったんです。

その時に、思い浮かんだのが“情報格差”でした。
格差なんて言うとちょっと大仰な感じがするようですが、ここで言う“格差”は“ギャップ”の事であって、単純に、「“発信側”と“受信側”で持っている情報にギャップが生まれている状態」を指しています。

この「“情報格差”が存在している」という視点を入れて考えてみると、「伝えたい事が伝わらない」という現状を打破するには、「発信側が発信しようとしている内容は、受信側がそのままダイレクトに受信して受け取れる状態(形式)になっているのか?」という事を考える必要性が浮上してきます。

そうすると、これはもう「伝え方の問題」だけでは収まらず、発信側と受信側の双方向を同時に考慮していく必要がある「翻訳の問題」として捉えた方が取り組み易い問題になっているんじゃないかと考えています。

なんて事を考えてみると、確かにこれは「その通りなんじゃないのか」と思えて来るから不思議です。

その昔、鎖国を解いたこの国には、それまでに西洋語の概念が存在しなかったので新しく「新語」を誕生させることになったと聞いています。

例えば、今は誰もが使っているし僕も使うことの多い、「哲学」とか「個人」とか「時間」とか「科学」とか「恋愛」とか「常識」とか「家庭」とか「権利」とか「印象」などなど。

その時代に行われた「新語創造の苦労」に思いを馳せつつ、今の時代を考えてみると、明治の世と同じように「外国語の概念」をどんどん輸入してきているのを感じます。特にビジネスパーソンの間ではこの新陳代謝がものすごいスピードで行われているのを感じます。

しかも、今の時代では外国語話者が多いので、外国語を外国語のままに輸入して使っているのが現状ですし、それがどんどん根付いていって多くのビジネスパーソンが当たり前に使っていますし、それを日本語訳して使ってみたかと思えば原語のまま使ってみたりして、あたかもいつの間にか浸透したかのように捉えてしまっていたりします。

が、いざ自分が普段生活や仕事をしている環境から少し離れてみると、「日常的に使っていたはずの言葉」が一切通じないという環境がそこかしこに存在しているのを、実は多くの人も感じる場面があるんじゃないかと思うんです。

例えば、「マネジメント」や「マーケット」なんて言葉がその代表格なんじゃないかなと思うんですが、そこから転じて、「仕事」とか「遊び」とか「働く」とか「楽しい」とか「報連相」なんかも、もはや「翻訳が必要な言葉」になっているんじゃないかと感じる事が多々あります。

上に書いた例は、人によって使っている言葉の意味が、微妙に違ったり大幅に違ったり、時には全然違ったりする事がよくあります。

これは、「同じ組織で働いているにもかかわらず全然違う意味で捉えている」というのが実際に起きているのを様々な場面で見聞きしてきているので決して僕の思いこみではありません。

だから、そこには「“共通言語”としての翻訳」が必要なんじゃないかと思うんです。

例えば、ここにAさんとBさんがいるとしたら、この二人の間で交わされるコミュニケーションの中においては「“仕事”とは、○○を言う」とか「マネジメントとは□□を言う」なんていう風に、“翻訳のルール”を決めておくだけでも十分に“一意”で話が通じるようになって、コミュニケーションの齟齬が起きづらくなってくるのは間違いありません。

とは言え、ありとあらゆる言葉について“翻訳のルール”を決めておくというのは現実的ではありません。

であれば、発信側は発信する際に「使用する言葉や表現が“一意”になっているか?」や「受信する側が受け取った際に、理解して肚落ちしやすい事例に沿っているか?」などを考えたうえで発信するという事が、「“翻訳”された発信」なんじゃないのかなと思うんです。

そんな風に、「翻訳を心掛けた発信」をしてみるというところから試しているような状態ではありますが、最近では徐々にこの手応えを掴み始めているような気がしています。


もしかすると、「翻訳を心掛けた発信とか言ってる割には、このnoteは何を言ってるのかよくわからない」という反応があるかもしれませんが、このnoteは出来る限り言葉を尽くして“翻訳”を試みようとする実験の場でもありますので、「わかりづれーよ」という場合には、翻訳しようとし過ぎて迷走してしまっているのが原因なのかもしれません。

今よりも翻訳の腕が磨かれるまで、何卒ご容赦ください。さーせん。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


#ビジネス #仕事 #群馬 #高崎 #対話 #組織開発 #人材開発 #外部メンター #主役から主人公へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?