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謎の力の正体が見えた

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

昨日から始まった『鬼滅の刃 遊郭編』を録画したものの、まだ見る事が出来ていなくて浮足立っている状態で月曜日が始まりました。

そんな、浮ついている僕ですが、ここのところ「マインドフルネス効果のあるモノ」に興味津々です。

「呼吸している時」もそうですが、「お風呂に入っている時」に体で感じる温度に意識の焦点を合わせたり、「歩いている時」に周囲の風景の変化を観察したり、地面が流れていく様子を観察したりして自分の意識を「今この瞬間」に合わせていられるように試しています。

意識を合わせるのは、じっとしている時には「呼吸そのもの」がメインでしたが、空手の型をしたりと動いている時には「動きそのもの」に意識を合わせますし、歩いている時には「周囲の景色の変化」に意識を合わせたりしています。

こうやって並べてみると、「吸う」と「吐く」も、空手の型のように「体の各部位の動きと姿勢」も、歩いている時の「景色の変化」も、どれも「動き=変化」というモノに意識を合わせる事で、「今この瞬間」を捉えようとしているんだなあというのがわかりました。

実際に、体の運動を伴う「歩く」とか「空手の型」などは、そのまま運動なので、その「運動そのもの」に意識を合わせるのは比較的やりやすいような気がしています。動きの正確さや速度や距離や角度や強さなどに意識を合わせると、頭の中はそれだけで一杯になってきますし、それ以外の事を考える余地は無くなるような状態なので、動いている間はずっと「今この瞬間」にだけ焦点を当てるという事はあまり難しくないと感じました。

問題は、「運動が伴わない状態の時」です。
いわゆる「坐禅」の状態が僕は最も苦手だなあと感じます。

体を動かさずに、「呼吸」だけに意識を合わせていると、かなり早い段階で「何か余計な想念」が頭の中を占めている状態になるようです。そして、そのことに気が付くのは恐らくそれを思い始めてからけっこう時間が経った後です。

「うわ、またこんな事思い浮かべてたよ」

なんて気付いて、慌てて「呼吸」に意識を合わせるんですが、しばらくの間はまたすぐにさっきまで浮かんでいた想念と同じモノが浮かんできます。

もうそうなると「呼吸」だけで「今この瞬間」に焦点を合わせようとするのはなかなか難しいので、そんな時は他の物事を利用することにしてみました。

例えば、今の季節だったら「寒い」とか「熱を感じる」とかといった身体感覚に意識を合わせてみます。

例えば、お風呂に入っている時の「お湯の熱」や「体が温まっている感覚」もそうですし、布団に入って寝転がっている時には布団から足先だけを出して、「体の温かさと足先の冷たさ」に意識を合わせてみたり、耳から入ってくる「何らかの音」に意識を合わせてみたりしてみます。夜中であれば、とても静かではあるんですが、家の外で風が吹いている音とか、同じ部屋で家族が寝息を立ててる音とか、時には自分の心臓の音なんかにも意識を合わせてみると、「呼吸だけ」でやっていた時よりもずっと「今この瞬間」を捉える事ができるようになった気がするんです。

そんな事を考えていたら、また当たり前のことに気が付きました。

全く動いていないように見えるモノであっても、よくよく観察してみると、実は「動きがある」し、「動き」は目に見えて動いているわけじゃなくても、ほとんどあらゆるところで起きているんだなあという事でした。

そもそも、坐禅の状態になっている自分も傍から見たら「全く動いていない」ように見えるはずです。

でも、当然ながら坐禅をしている僕は生きているので、傍から見て微動だにしていなくても、呼吸を始めとした生命維持活動は体の内側で行われています。息を吸ったり吐いたりだけじゃなくて、鼻腔で感じる何らかの匂いだったり、喉の渇きだったり、食後であればお腹の中で消火活動が行われている胃腸の動きだったりそれを表す音だったり、イスに座っているならお尻が座面に触れている感覚とか、胡坐をかいているなら曲げて組んでいる脚の感覚だったり、心臓の鼓動とともに感じる血液の流れだったり、そんなふうに「動いている」部分はたくさんありますし、傍からはわからなくても、自分自身だけに感じる事のできる「動き」はたくさんあります。

そんな「動き=変化」に意識を合わせることで、マインドフルネス効果が得られるのをここ数日であらためて感じています。

今、コーヒーを飲みながらこれを書いているんですが、「コーヒーを飲む」という行動でも「今この瞬間」に意識を合わせる事ができた感じがしたので、「何かを飲食する」という行動はかなりマインドフルネス効果が高いんじゃないかと思い始めてきました。

そして、こうやって「何かを書いている時」も、「今この瞬間」に意識を合わせるのにうってつけだというのも今まさに体感しています。

これはきっと、「書く」という行動が「自分自身との対話」になっているからなんじゃないかなと今この瞬間は感じているので、だとすれば、「他者との対話をしている時」はどうなのか?

と、少し思い出しただけでも、確かに「他者との対話」は「今この瞬間」に意識を合わせている、というか、それをしなければ、それが出来ずに「いつかの何か」に意識が囚われていたら、そもそも「対話」が成立しないんじゃないかという事に気が付きました。

そう考えると、なるほど合点がいきそうです。

マインドフルネス効果を得られる行動は、どんな行動であっても「自分や他者との対話」という事がそこに含まれているんじゃないかという仮説が見えてきました。

そう考えてみると、「今この瞬間」以外のモノに意識を囚われることの無い状態は、確かに「対象になっている物事」以外の事を考える余地がありません。

それが「呼吸」だろうが「散歩」だろうが「空手の型」だろうが「漫才を見る」だろうが「美味しい物を飲み食いする」だろうが「本を読む」だろうが「文章を書く」だろうが「人と話をする」だろうが、そこに意識を合わせてそれを持続させることが出来れば「集中する」という事ができるようになるわけです。

そして、その「集中する」が可能になるのは、そこにある「対象になっている物事との“対話”」が必要不可欠だという事なのかもしれません。

これを仮説としてみると、確かに“同じ物事に取り組んでいる状態”で見比べてみても「集中している」と「集中していない」の違いとしてはまあまあ妥当なんじゃないかなと思えてきます。

この仮説をこれから検証していくために、まずは己の体で人体実験をしてみようと思います。

まずは一番手軽に出来るところで「呼吸」から手を着けてみようと思っていますが、もしこれで集中できるようになってきたとしたら、僕にも「全集中の呼吸」が使えるようになるのかもしれません。

その時には、晴れて「集中力」ってやつが手に入るのかもしれません。

よし、修行しよう。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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