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修羅場の箱を覗いてみれば

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「自分達も昔は随分と“修羅場”をくぐってきて今があるから、やっぱり若い人たちもそれなりの“修羅場”の経験が必要なんじゃないかな」

“仕事”についての話をしていると、いわゆる“昭和世代”である40代以上の人達の多くがこんな価値観を内面化していることに気が付きます。

僕もアラフィフに括られる年齢なので当然ながらこの“昭和世代”のど真ん中ですし“過去の自分”も冒頭のような価値観を内面化していた自覚がありますし実際にそういう言動をしてきたこともたくさんありました。

でも、“今の自分”はこういう価値観では無くなっているんじゃないかと思っています。ただ、一部は“昔の自分”と同じようなことも考えてはいますが。今の自分が考えているのはこんな感じでしょか。

「自分達も昔は随分と“修羅場”をくぐってきて今があるけど、若い人達には“必要な苦労”だけをしてもらって“必要ない苦労”はしないでもらった方がいいんじゃないかな」

という感じです。

「自分達も昔は随分と“修羅場”をくぐってきて今がある」というところまでは冒頭の価値観と同じです。

でも、過去の記憶の中で“修羅場”と追想されるモノは実際には一つずつ細かく見ていくとそれぞれ別の出来事であるわけです。それを「過去にはあんな“修羅場”が色々あったよなぁ」と物凄い大雑把にザックリと括ってしまっている状態でもあります。
もちろんそういう“修羅場”を潜り抜けてきたから今があるというのは間違いないことではありますが、それは結局“生存者バイアス”と言ってしまえばそれで終わってしまうような話でもあるわけです。

「過去に色々あったかもしれないけど、今ここにこうしている、という結果論として自分達が体験した“修羅場”が必要って言ってるだけなんじゃない?」というように。

例えば、極めて大雑把でザックリした乱暴な“修羅場”という括りを一旦外してみて、その当時に体験した出来事を一つずつ起承転結で見ていったとすると、実際には「この経験は大して必要無かったなぁ」とか「振り返ってみても、ただ理不尽な仕打ちをされただけであって、別にしなくても良かった経験かもしれない」なんて思うことが、僕も仲間も“修羅場”と呼んでいたモノの中には案外とたくさんありました。

そうやって“修羅場の仕分け”をしてみることで、今の自分達はこう考えています。

「自分達が“修羅場”だと思っていた経験の中には、“必要な苦労”と“必要ない苦労”というモノが確実にあった」と。

そして、これについてもう少し考えていってみるとこういうことも出てくるわけです。

「例え成長のために“必要な苦労”だとしても、今のご時世的に、誰かがそれを“やりなさい”と指示命令することは不可能なコトもある」

そんな現実を踏まえて考えてみると、“昭和世代”が「“修羅場”の経験をしないとねぇ」なんて思っているコトについて、現実的に今の20代や30代どころか、これから社会に出てくるであろう“令和世代”が「同じような“修羅場”を経験する」なんてことは起きようはずがありませんし、それをやらせようとすれば新聞沙汰になってしまうのは火を見るよりも明らかです。

「じゃあ、どうしたらいいの?何もやらせなければいいの?」

きっとこう思う人もたくさんいるんでしょうし、実際にそう思って現場で困っている先輩上司もたくさんいるんでしょうし、こういう質問を実際にされることもあったりします。

でも「何もやらせない」なんてことも“仕事”である以上は不可能ですから、どうにかして若い人たちには“仕事”を通して成長してもらう必要がありますが、昔のような「“修羅場”を潜ってこい」的な関りをすることもできません。

であれば、やれることは一つしかありません。

「過去の“修羅場”を事例として一つずつ分析して、そこから“人が成長する構造”を抜き出して、現在の仕事の中で可能な範囲で再現できるように“仕事”を設計し直し“今の若い人たち向けの仕事”として再編集して“新しい仕事”を創り出す。もちろん、先輩上司が定期的に関わってマネジメントをする仕組みも組み込んで組織全体としてサポートする体制を整えて成長を支援する」

これをやることで、“修羅場”なんていう「しなくても良かったはずの理不尽で不条理な体験」をしなくて済むようになりますし、だけど“働く人”として必要不可欠な成長をするための“必要な苦労”をサポートありきで安心してもらった状態で獲得してもらうことができるようになるわけです。

“体験する本人”以外の周囲にいる人達や環境としては“こういうこと”ができますし、逆に言えば「“こういうこと”しかできない」わけです。

だから「大変だ」とか「面倒だ」とか「不公平だ」とか色々思うところはあるかもしれませんが、単純に考えれば、「やらなければ、今から先の時間軸の中で“この仕事”や“この会社”で一生懸命働く人がいなくなってしまい、存続できなくなる」という現実が待っているだけなので、「大変だし面倒だし不公平だ」と思うかもしれませんが「なぜ“これ”をやらなければならないのか?」ということはかなりシンプルにハッキリとしているので「これが責務だから」と考える組織の中にいる人達__恐らく、まずは経営者からになるでしょうけど__実践するしかないんじゃないかなと思っています。

とは言え、

“こういうこと”を、どこまで何を整えてどんなことを教えたとしても、最終的にはそれを“体験する本人”がどういう心持ちでどんな精神的姿勢で“それ”を体験するのか、その体験から教わった通りに主体的に学びを得たり復習したり実践したりするのかどうか、ということだけがポイントになってしまいます。

傍から見て「あんなに環境も周囲の人も良いはずなのに、なぜ?」と思うような事象が世の中ではそこかしこで起きているのが現実です。どれだけ素晴らしい環境が整っていたとしても、どれだけ素晴らしい人達との出会いに恵まれていたとしても、「〇〇が無いから」とか「△△のせいで」なんて不平不満を口にしてその環境を自らフイにしていく人の話は星の数ほど見聞きします。

でも、「自分は恵まれている」と気付いたり、「今のこの環境で頑張ろう」と、素直に周囲の人に教えを乞うて感謝して教えを実践できている人は、どんな環境でもどんな状況でもスクスク成長していくというのも(星の数ほどではないですが)昔も今もたくさん見聞きします。

そういうことも考えていくと、結局は、「“体験する本人”次第である」ということですし、「それが全てである」と言えるのかもしれません。

これはきっと、“仕事”というものが、社会的動物である“人間という生き物”が形成している“社会”の中で行われている“人間の営み”として必要不可欠のモノである以上は、昭和だろうが平成だろうが令和だろうが太古の昔だろうがこれから先に続いていくであろう未来のいつの時点であっても、きっとずっと変わらない不変で普遍なことなのかもしれません。

昔も今もこれからも、ずっとそうやって考えて行動してまた考えて行動して…と繰り返していくしかないんですから“修羅場”なんて誰かから与えられるモノじゃなくて、「自分の未来は自分で創る」という意志によって“ヌルイ日々”にも“穏やかな日常”にも“毎日が修行”にもなるんでしょう。

「今日一日をどう生きるのか?」

そんな己への問いかけをこれからも続けていく必要をあらためて感じている土曜日です。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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