聖夜だけど鬼は外の掛け声が聞こえてくるようだ
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「あの人、もう10年以上もこの仕事をやっているのに、こんなこともわからないなんて!」
そう言って怒りを露わにしている人の話を聴かせてもらう機会がありました。
僕が話を聞かせてもらっていたAさんは、同僚のBさんの仕事ぶりにいつも不満があったそうです。その不満の内容はといえば、冒頭の言葉に集約されているように「もう10年以上の仕事の経験があるはずなのに、新人と同じようなレベルで些細なことをなんでも聞いてくるし、一回教えても次も同じことを聞いてきたりして、「これだったら新人の方がよっぽど良かった。できないことが前提になるからイライラしなくて済むのに」とのことでした。また、それ以外にも「絶対に責任を引き受けようとしないし、自分で調べて仕事を進めるとか創意工夫をするとかもしないから、とにかく仕事のクオリティが低くて、あれで10年以上の経験があるなんて信じられない」なんてことも言っていました。
Aさんは、仕事上でBさんと上司部下の関係ではないそうで、たまたま今年から同じような業務を担当することになったけど、上司は別にいてAさんに確認をしなくちゃいけないことなんて業務上は無いそうです。
「なるほどねー」なんて言いながら話を聞かせてもらっていましたが、様子からしてAさんも特にアドバイスを求めてきているわけではなさそうだったのでただただ“職場の愚痴”を吐き出したいだけなんじゃないかなと思っていました。
すると、Aさんがこんなことを言いました。
「新卒で入って10年以上同じ仕事をしていて、30代前半であんな状態で全然仕事ができていないし仕事も山ほど残っているのに残業は絶対しないで定時に帰るし“権利はしっかり使わないと”とか言って育休は取るしで、仕事くらいちゃんとできなくちゃって思わないのかな?どう思う?」
なかなか“強め”な話題で急に意見を求められたので「愚痴を吐き出すだけじゃなかったんだ」と少しだけ驚きながら、最近目にした印象に残った話を伝えました。
元メジャーリーガーのイチローさんが話していたという「昔は誰かに厳しく指導してもらえたから、できない人もそこそこモノになった。今の若い人は、実力を身に付けようと思ったら昔と違って自分で自分を厳しく律するしかないから、昔よりも厳しいと思う」という話です。
検索したらイチローさんがその話をしていた記事が出てきました。
これは、“昔の時代の若者”だった僕もイチローさんと同じように感じています。
今の時代は、“指導する側”に求められるモノがとても様々に増えてきているので、迂闊に言葉を発することができません。仮に「よかれと思って」何かをしても、“指導される側”が気分を害した時点で“ハラスメント”が成立してしまいます。もちろん、そうなっていったことで“指導の意味が皆無のクソみたいな正真正銘のハラスメント”が大幅に減りましたし、そんな“指導の意味が皆無の~ハラスメント”によって心身に大きなダメージを受けてしまったかもしれない未来の被害者も減ったんだろうと思います。
ただそれと同時に「指導された時には“指導される側”が未熟すぎるがゆえに理解ができないから気分を害することにもなるけど時間が経って理解ができる時がくる可能性のある“厳しい指導”」も大幅に減ることになりました。
何しろ、“ハラスメント”なのか“厳しい指導”なのかは“指導される側”にはわかりませんし、“指導する側”もそれを明確に切り分けることができるほどの指導力がある人というのもそれほど多くは無いのが現実だと思います(立派な指導者が“厳しい指導”と“ハラスメント”を一緒くたに考えているって場合も多々あります)。
だから、世の中から“厳しい指導”というモノが姿を消すことになったのは必然だったのかもしれません。
ただ、それと同時に「誰もが自分を自分で律することでしか“真の実力”を身に付けることができない世の中」になったわけです。
何しろ、「あなたのためを思って厳しいことを言わせてもらいます」という“指導する側”が“指導される側”の前に出現してくるとう状況は、“指導される側”が言葉と態度の両方で「私に、厳しい指導をしてください」と要請して、「それならやってあげてもいいですよ」と承諾してくれた時だけになってしまいました。そういう世の中になってしまったわけですから。
逆に言えば、“指導される側”が「私に、厳しい指導をしてください」と頭を下げて願い出ることをしなければ、わざわざ“ハラスメント者”になるかもしれない可能性のある“指導する側”になるという“汚れ役”を引き受けてくれる親切な人は出てこないんじゃないだろうか?と思えてきます。
これはあくまでも“今の世の中”で主流となりつつある「コスパの良い考え方」に代表される「“消費者”として合理的だとされている考え方」で考えた場合には、という話になりますが。
だけど、世の中にはそれでも“指導する側”を自ら買って出てくれる人もまだ存在しています。
そして、そういう人達はなぜだか決まって「別に好かれようと思ってやっているわけではない」という話をしていますし、無駄に“ハラスメント”というものを恐れていません。
そこにはその人達なりの“基準”を明確に設けて「誰に対しても“基準”をベースに指導的なかかわりをする」ということをルール化して接しているように見受けられます。
それに何と言っても「気分に左右された言動をしない」ということを自分に課しているようにも見受けられます。
そうやって、「自分を厳しく律する」ということを実践しているのが“指導する側”を自ら引き受けてくれる人には共通しているなぁというのが僕の観測範囲内での感想です。
とは言え、そういう“現代の指導する側”が「誰に対しても、そういうかかわりをしてくれるのか?」というのは今のところはちょっとよくわかりません。
“なにか”や“どこか”で線引きしているのかもしれませんし、していないのかもしれません。
ただ一つ言えるのは「無理強いはしないし強制的に押し付けることもしない」というのも共通項になっているように感じています。ただ、それは“見限っている”ということと同じ意味では無いんだろうなとも思っています。きっと、様々な“シカケ”はして、相手が「やっぱりちゃんとやっていこう」と思って行動を始めたら“指導される側”になれるような“シカケ”なんだろうなと思っています。
だから結局は、「自分を律して“真の実力”を身に付ける」ということを自分の意志で決めて自分で行動をするということができないと、今の時代は“指導する側”の指導を受けることもできなくなっているわけですし、ちゃんとした指導ができるような“指導する側”になることもできなくなっているというわけです。
僕自身もすぐに「楽な方へ、ヌルイ方へ、適当な方へ」と流れていってしまうので、“怠惰な自分・ズルい自分・ダメな自分”という自分の内側にどでんと居座っているソイツラと日々闘いながら(そして、時には敗戦を喫しながら)「自分を律して“真の実力”を身に付けたい」と思って修行に励んでいる毎日です。
でも、そうやって「自分を律する」という“己との闘い”を繰り返して常に“己への勝利”を目指していることで、そんな自分を(昔に比べたら)段々と好きになってきている実感があります。
だからこれからも「自分を律する」ということにずっと取り組み続けていこうと思っています。きっといつか“真の実力”が身に付いたと思えるその日がやってくるのを信じて。
あ、でも、今日は休日だしクリスマスイブなので“己との闘い”は一時休戦てことでお願いします。夜だけどこれからケーキも食べちゃうぜ。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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