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痛みと弱みと回りくどさと

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

流行り病対策の注射を打ってもらいに、群馬県最大の集団接種会場へ行ってきました。

会場は、『Gメッセ群馬』という県内最大の集客数を誇る多目的施設で、僕はこれまでその施設に全く用事が無かったので、今回初めて中に入りました。

出来て間もないので中も綺麗でしたし、とにかく広くて、「何らかの催しをやるにはとても使い勝手が良い会場だろうな」と、ついつい以前に自分が運営していた就活イベント等を思い出しながらスタッフ側の使い勝手に思いを馳せたりしてみました。

注射を受ける場所に辿り着くまでに、書類の確認や問診などの幾つかの段階を経て、いよいよ打たれるためのブースに入ると、列の先頭からタイヤの付いたイスに座った医師が、そのタイヤ付きのイスを滑らせながらちょっとずつ移動して注射を次々に打って近づいてくるのが目に入ります。

その様子が、「白衣をなびかせながら、ウイルスを倒す為に人々にパワーを分けて前進する正義の味方感」のようなイメージを想起させて、何と言うか“ヒーロー”みたいに見えました。

「おお、なんかカッコいいな」思っているうちに、僕の目の前にやってきて、アルコール消毒をされて「チクッとしますよ」と言われ、注射の痛みに耐えている間に僕の番は終わりました。

注射自体の痛みは、これまでに受けてきた注射となんら変わらずに普通の痛みだったので一安心して、注射後の規定時間待機した後に会場を後にしてきました。

注射を終えたその後も、周囲の人に聞いていたような“痛み”を感じるほどでもなく、「まあ、こんなもんか」と安心して一日を終えました。

そうして迎えた今朝には、見事に、聞いていた通りの“痛み”に襲われました。

僕が注射を受けた場所は、左腕の三角筋中部の下の方でしたが、左腕を上げようとしたり回そうとしたり、下ろそうとしたり、捻ろうとしたり、そんな簡単な動作で三角筋が動く度に“鈍いけど強めの痛み”が注射を打たれた箇所を中心にそれなりの幅と長さを持って広がります。

これを書いている午後6時半頃も、朝よりも強めの痛みが走っています。

正直、この“痛み”の強さは、僕がこれまでに感じてきた様々なケガや筋肉痛と比べると、「まあまあ痛い部類」に区分されるんじゃないかなと思っています。

ただ、「動かさなければ大して痛くない」のも事実なので、できるだけ左肩が動かないように気を付けて生活をしています。

そんな左肩を、少し前に不注意のアクシデントでホントに軽くぶつけたんです。

そしたら、ビックリしました。あまりの激痛に。うっすら涙が出るくらい痛かったんです。

もうそれからは恐怖です。あの痛みを再現したくない。
その一心で、ちゃんと社内では申告しています。

「左肩が痛いです」と。だから、僕の左肩に例え事故でも触れる事の無いように気を付けて下さいとも言っています。

さっきぶつけた時もそうでしたが、今のこの左肩をホントに軽くでも叩かれたりしたら、しばらくの間は行動不能に陥ります(というか、実際に行動不能に陥りました)。その間は、これだけの質量を備えた何も出来ずに動けずうずくまっているだけの大きな塊と化してしまいます。あの痛みにおそわれている間は、頭で何かを考えるのも難しいですし、まともに話をする事も出来なくなるのが、さっきのアクシデントで証明されているので、現状は社内でも理解をしてもらっているような状態です。

だけど、今朝出社した時点の僕はこんな事を言っていました。

「注射打ちましたが大した事無かったですよ。今も大して痛く無いし、熱も出てないので全然大丈夫です」と。

それから数時間が経過してアクシデント発生と共に状況が一変し、今では、「子どもでも簡単に一撃で無力化する事が可能な状態にできる」というとてつもない弱点を抱えてしまっています。そんな状態なのであれば、周囲には知っておいてもらう必要があるんじゃないかと思っています。

本音を言えば、僕の中に「痛みでパフォーマンスが落ちるなんて言いたくないし認めたくない」という部分は明らかに存在しています。“弱み”を自分の口で人に知らせるのは「カッコ悪い」とか「潔くない」と思ってしまう部分があるからです。

きっとそこには、「自分は“弱い”から助けて下さい」と自己申告する事への罪悪感みたいなモノがあるんじゃないのかなあと思ってはいるんですが、今のところハッキリと分かっている感じもしないので“これだ”と断言できるわけでもありません。

でも、自分の中に存在しているっぽい「“弱み”の表明カッコ悪い」という価値観について、一方では「なぜそれがカッコ悪いと感じるのか?」という「問い」を立てている自分がいるというのも感じているんです。

そんな対極にいる自分と自分が、時によって出たり引っ込んだりしているような状態です。

とは言え、その対極にいる両者をちょっと違う場所から(ロナルド・A・ハイフェッツ的に言うなら、両者のいるフロアを見渡せる踊り場から)観ている自分もいて、その“踊り場の自分”からは、“弱みを隠す自分”であれば短期的には何かの役に立つ事は出来る可能性が高いかもしれないが、“弱みを表明する自分”の方が中期的にも長期的にも持続可能性を持っているし「役に立つ」に近づく事が出来るだろうと考えている。そんな風に見ているというのを、“これを書いている普段の自分”は実際には理解しているんです。

というような、“自分の中の自分から見た自分”という、文字にすると何だかよくわからなくなるような複雑な内面で起きている事を書いてみたわけですが、自分でも何だかよくわからなくなりそうでいて、だけど、実際に人に説明しようとするとこうやって多くの説明が必要になる事象が、自分の頭の中というか心の中というかそういうところで起きているわけですし、これはきっと自分だけでなく他者の中でも起きているのかもしれないと思うわけですし、そうなると、“論理的な説明”というモノだけでは一生の時間をかけても掴み取れないモノだったりするでしょうし、だけどそれを“直観的に”掴み取るという事は出来る場合があるのかもしれない。

そして、その“直観的に”というのは、決して、当てずっぽうの勘では無いし、出来る人も出来ない人もいるかもしれないけど論理的な説明じゃないからと言って“存在しない”というわけでもないし、オカルト的でもなくて、ただただ“直観的”であるだけなんじゃないか。なんて事を、長々と考えたりしてしまっています。

とは言え、今回のnoteで言いたかったのは、

「今のところ、自分の“弱み”を客観的に把握して仲間には把握しておいてもらった方が、役に立つという事に繋がるのではないか」という事でした。

じゃあ、この長々と書いていたのは何だったのかという話になるかもしれませんが、これも「僕はこうやって長々と書かないと、たったこれだけの言いたい事すらもこれだけの尺と前段の話が必要であって、これを事前に切り捨てて短くまとめて伝える事が出来ません」という“弱み”の表明なんじゃないかとも思いますし、そこに想いを馳せて読んでもらえたとすると僕はとても嬉しいですし、読んでくれた方にとってなのか、僕にとってなのか、はたまた全然別の誰かにとってなのかはわかりませんが、いつか何かの役に立つ時が来てくれますようにと願っていますし、もし未来永劫役に立つ時が来なかったとしても、それはそれで「まあいいか」と思えるその心の余裕こそが、本当は一番役に立つのかもしれません。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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