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わかるってどんな感じかな

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

ZOOMを使うと遠隔地に居ながらにしてミーティングが出来ます。

「え?それがどうしたの?」

ZOOMを使った事がある人がこの書き出しを見たら、そう感じるんじゃないかなと思います。当たり前の事を書いて何がしたいんだろうか、とも思うかもしれませんが、この話はまだ続きます。

遠隔地に居ながらにしてミーティングが出来るという事は、つまり、ミーティングをするために自分の体を移動させて、ミーティングをするその場まで赴く必要が無くなるので、『移動時間』というモノが必要無くなるわけです。

「そんなの当たり前でしょ?」

もちろんそうです。
その通りですし、当たり前に決まっています。

例え、ZOOMを使った事が無い人であっても、“その機能”を説明されて理解できた人であれば、「遠隔地に居ながらにしてミーティングが出来る=移動時間が必要無くなる」というのは理解できるでしょう。それは、恐らく老若男女問わず、理解できるだろうなと思います。これも当たり前の話でしょう。

だけど、

「“それ”を理解ができる」からと言って、「“それ”を実感できる」かどうかと言うと、どうなんでしょうか?

例えば、ウチの会社でもZOOMは頻繁に使っています。ウチが主催するオンラインの対話イベントでは、日本全国どころか世界各国から参加者が集まってくれていましたし、熊本県の高校での対話ワークショップに参画してみたり、日本中から参加する人のいる研修に参加してみたりなどなど、とにかく遠隔地とのコミュニケーションの為には、今や欠かす事の出来ない必須のツールとして日々活用しています。

そんな僕たちは、今から1年数か月前まではZOOMを使った事がありませんでしたし、そもそもその存在すら知りませんでした。

僕たちが、今や必須とも言えるこのツールを使い始めたのは、世の中を自由気ままに出歩くのが難しくなった2020年4月頃からでした。

それまでは、遠隔地でも顔を見ながら話しを出来るツールとしてはskypeを何度か使った事があるとか、LINEテレビ通話の存在を知っていたくらいで、その理屈も利便性も認識していたにもかかわらず、「ミーティングをする」とか「対話イベントをする」となれば、いつだって“場所”ありきで実施するリアルでの対面を当然の如く前提としたモノしかしたことがありませんでした。

そして、“リアル対面”を前提としていたので、「オンラインでのミーティングとか対話イベントなんて、本当に意味や効果が生まれるのか甚だ懐疑的だぜ」なんて事を不遜にも考えていました。当時は、本当に「“リアル対面”してこそのコミュニケーションの効果だろう」と固く信じていたんです。

そんな僕は、当時「オンライン対話イベント」を実施する事に、社内で一人“反対派”の姿勢を貫いていたのは、頑迷極まりない愚かなる過去の汚点として時々社内でも笑い話のネタになっていますが、忘れる事の無いようにこうやって公言しておこうと思います。

もちろん今は、「オンライン対話イベント、最高だぜ!」と真逆の立場にいる事も併せて表明しておきます。

なぜ立場を鞍替えしたかと言えば、理由は簡単です。

「実際にやってみて、オンラインでの効果を“実感”できたから」に他なりません。

ZOOM以外の“ビデオ通話ツール”の存在も知っていたし使った事もあったしそれらの効果や役割を理解もしていたのに、です。

こうやって書いていても、ここで自分が言っている“実感”というモノは一体何なのか?という事がとても気になってくるわけです。

何しろ、「理解している」とか「知っている」とかとはあまり関係が無さそうなモノなわけだし、例え「使った事がある」んだとしても、“実感”とは程遠い場合もあるわけです。

だけど、“実感”が手に入ると、それまで頑なに主張していたはずの立場を、いともたやすく翻して恥じ入る事すらしないどころか、今や「オンラインでの対話やミーティングに抵抗があるなんて、時間も機会も失っている可能性があるかもしれませんね」なんて余計な心配をしてしまうくらいに、一刻も早く取り入れた方が良いですよというスタンスを取っています。“妖怪掌返し男”と呼ばれたとしても仕方ないくらいの転身ぶりだなあと自分でも思うくらいに、オンラインビデオツールの導入を推奨しています。

それくらい、この“実感”というヤツは威力満点だなあと感じているんですが、じゃあそれはどういうモノなんだ、と。

これにはやっぱり、まず体を通して感じる必要があります。いわゆる、“体感”というやつです。

だけど、“体感”だけではダメなのかもしれません。なぜなら、僕もskypeの存在は知っていたし使ってみた事もあったにもかかわらず、オンライン対話やオンラインミーティングという用途で使ってみた事は無かったからなのか“実感”する事はありませんでした。

となると、もしかしたら“体感”するのも類似の体験では効果が無い可能性がありそうです。

実際の目的や用途と全く同様のモノ、つまり、本番を“体感”する事でしか“実感”は得られないのかもしれません。練習やロープレなんかの代用ではなくて、ホントの本番。

ホントの本番、つまり、“実”。となると、練習やロープレは“虚”なのかもしれなくて、“虚”を“体感”してもなかなか体の中に何かを残したり得たりするのは難しかったりするのかもしれなくて、“実”を“体感”する事で、体の中でその“実感”が体を通って掴み取る=“体得”する事に繋がって“腑に落ちる”とか“肚落ちする”とかに繋がるのかもしれないなあ。だからこそ、練習やロープレなどで“実感”は得られづらく、実際の本番で“実感”を得る事が多いのかもしれません。

とは言え、練習やロープレが“虚”だとしても“空”ではなく“無”でもなくて、得られるモノが確実にあるからこそ練習やロープレという準備を何度も“体感”しておくことで、その“虚”をたくさん体を通す事で、本番での“実”を体が掴み取る為の下地が整ってていくという事に繋がっているんじゃないかとも思うんです。

なるほど、そうだとすると「知る」も「理解する」も練習やロープレなどの“虚”と同じような事かもしれないし、それの準備とも言えるのかもしれません。

そういう段階を経る事で、ようやく掴み取れるのが“実感”なのかもしれないという、「虚感実感説」を思いついたので書いてみました。

この仮説(?)をベースにして考えてみると、例えば、「ZOOMの存在も使い道も利便性も知っているし理解しているけど、意味が無さそうだから使わない」という姿勢を貫いていた人が、「周囲からの進言に従って、仕方なく自分の仕事の打ち合わせで使ってみたら、“時間が無いから無理”だと思っていた打ち合せが何の問題も無くスムーズに出来たし、移動時間のムダが省けて、めちゃくちゃ良い!」と笑顔で仕事が順調に言っている旨の話をしてくれる人に変貌したとしても何の不思議も無いんだろうし、逆に言えば、“実感”を掴み取るまでは、“在りし日の僕”のように「徹底的に懐疑的である」というスタンスのままであるという事も当然あるんだろうなと、今更ながらに猛省をしているところです。

でも、

僕も誰でも「気付いた時が最速のタイミング」なので、真逆のベクトルに鞍替えしたって無問題。

そう思って、そう信じて、今日も何とか頑張って生きています。“実感”と共に。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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