勝手に湧いてはくるけれど
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「大事なのは、本人がどう感じて考えているかじゃないかな」
とある人が、その人自身の身近にいる他者のことについて“最近、その人の様子が以前と変わってきてしまって心配だ”というような話を僕に向けてしてきました。
話題に出ている人については、僕も面識があるので「そうなんだ」と言いながら聞いていましたが、どうやら話の主旨は「こちらからする話を全く聞かないし、話が通じなくなってきていて、ヤバいんじゃないかなと思っているんだ」ということのようでした。
僕からすると、関係性としてはそれなりに距離のある人ですし、普段からあまり接することも無い人なので、細かな事情もわかりませんし、そもそも、どこにどんな風にヤバさを感じて心配になるのかが全くわかりません。なので、“そもそも”から話を聞かせてもらうべく質問をしてみました。
「そもそも、何について・何で・~と思うのか?」こんな形の質問です。
そうやって聞いてみることで、それまでよくわかっていなかった話の内容が少しずつ見えてきます。
それと同時に、話をしてくれている目の前の人と、話題の中心になっている人の間に存在している“深くて広くて容易には越えられそうもない溝”の姿が徐々に姿を表しはじめてきました。
そこに表れてきたのは、“前提”と"使っている論理”の違いからくる“立っている世界の違い”でした。
もちろん、聞いている話は目の前にいる人から聞いている“一方向”からだけの話なので、これが全ての事実を捉えているというわけでは無いんだろうとは思いますが、少なくとも、話をしている人が捉えている世界から“この姿”に見えているからこの話をしてくれているんだと思うわけです。
もっと言えば、目の前にいる人は“対象の人”に対して「大丈夫かな?」と心配しているけれども、その“対象の人”からは「自分って大丈夫なんだろうか?」という相談を持ちかけられているわけではない状態です。なので当然、その“対象の人”自身からは、目の前の人が心配しているような内容についての相談事が誰かに対して行われることは当然ながら無いわけです。
だからこそ、そこには、目の前の人にとっても“対象の人”にとっても、“深くて広くて容易には越えられそうもない溝”が明確に存在しているのがハッキリ見えてきます(どちらの立場からしても、「何言ってんだアイツは?」というような感じでしょうか)。
そして、それが「“前提”と“論理”の違いによって生まれてしまっているんじゃないか?」という仮説を立て、それを検証していくことで、「やっぱり“前提”と“論理”の違いなんだ」ということが見えてきて受け入れられると、目の前の人が当初言っていた「あの人が心配なんだ」というモノが、全然違う形に変化していったりすることがよくあります。
途中までは、目の前の人の中で「“前提”と“論理”の違いによって生まれている違い」ということがなかなか受け入れることが出来なかったようで、「あの人がなんかオカシイんだ」という立場から動けなかったみたいでしたが、話を続けてたことで、徐々に「ああ、“前提”と“論理”が全然違ったんだ」というところで落ち着いたようでした。
結果、当初“目の前の人”が話していた“問題のようなもの”については特に何の変化も起きてはいませんが、それ自体の変化は何も無いままに“問題のようなもの”が霧が晴れたかのようにサーッと消えてしまったようなスッキリした状態になったようでした。
どうやら今のところ“対象の人”からは特に何も相談があったりしているわけでもなく、というか、とても楽しそうにしていて「私は充実しています」という話がよく出てくるような感じのようでした。ただ、傍から見ていて「それ、ヤバいんじゃないかな?大丈夫かな?」と思える状況に見えて心配になる。そういうことだったようです。
「それは余計なお世話」とか「お節介」という感じ方や捉え方もできるとは思いますが、僕のような“ほぼ関わりの無い他人”が見たり聞いたりしても実際には同じように感じるのが本音ではあります。
でも、現時点で“対象の人”自身が満足して生活しているのであれば、特に何かをわざわざ言う必要も無いだろうと思いますし、言えば言うだけ反発を受けたり、場合によってはウザがられたり恨みに変わることだって無いとは言えません。つまり、「誰にとっても良いことが無い」状態です。何しろ、今のままずっと時間が過ぎていくことがあるとしたら“周囲が心配しているようなこと”は起きないで、本人もずっと充実感を得たまま過ごせるわけですから。
もちろん、“周囲が心配しているようなこと”が起きないように事前に先回りして“何か”が起きるのを未然に防げるのが本当はいいのかもしれませんが、そのためには本人である“対象の人”が、“前提”や“論理”や“価値観”を変えないと実現しないことは、誰が見ても明らかになっている状態です。
であれば、周囲の人が出来ることは一つしかないのかもしれません。
「“周囲が心配しているようなこと”が起きて“対象の人”からのヘルプが発信された場合に、素早く手を差し伸べてあげる用意をしておくことだけしか無いのかもしれないよね」
現状については何の変化も起きないかもしれないようなことを伝えてこの話は終わりました。
傍から見て、どれだけ「ヤバそう」だと感じても、本人がそれを感じていなければ周囲がしてあげられることはその時点では無いんじゃないかなと僕は考えています(もちろん、ダイレクトに命に危険が迫るような行動をしているのであれば話は全く変わってきますが)。
逆に言えば、どれだけ痛い思いをしても当事者が「どうにかしたい」と思わない限りは、周囲でできることは“環境を整える”くらいしか無いのでは無いか。そう考えています。
それが仮に、“全く知らない人”であっても、“遠縁の人”であっても、“友達”であっても、“家族”であっても。
「自分以外の他者である以上は、それしかできることが無いんじゃないだろうか?」
久々に“その場にいない誰かについての相談”を受けたことで、あらためて自分がこう考えているということを再確認できました。
とにかくただまっすぐ話を聴いて、“前提”と“論理”を観察して、変えられることと変えられないことを見極めて、変えられることだけに取り組んでいく。僕にできるのはやっぱりそれしか無いんだよなぁ。
あかね
株式会社プロタゴワークス
https://www.protagoworks.com/
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