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世界の一部を担っているんだぜ俺たちも

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「世界は誰かの仕事でできている」

何年か前に缶コーヒーのCMに使われていたキャッチコピーですが、僕はこの言葉が大好きです。何しろ、僕や仲間の実感にとてもしっくりくるんです。

いつどこで何をしていても、常にこの言葉を実感として感じます。

僕は、自分の生活を成り立たせてくれている物を、何一つ自分の手で作り出すことができません。

朝目が覚めた時に、僕の身を包んでいる寝間着や、その上にかかっているタオルケットや、頭をのせている枕も、マットレスもベッドも、そこから降りて歩く家の床も、もちろん家自体も、何もかも僕は作ることができません。その技術も無ければ知識も無いし資材も無ければ財力もありません。

何にも持ち合わせの無い僕が、それでも毎日普通に暮らしていけて生きていられるのは、間違いなく僕の暮らしを成り立たせてくれている“誰かの仕事”があるからで、そして、そこには当然ながら顔も名前も知らない“誰か”の存在があるわけです。

そんなことを日々実感しながら生きているわけです。

だからこそ、“自分にできること”で且つ“誰かの役に立つこと”を仕事にしようと思って、今の自分達の会社を起こしましたし、この仕事をしているわけです。

それによって、どうにかこうにか“誰かの仕事”の集大成で成り立っているこの“世界”のごく一部を担っている実感を得ることに繋がっています。

だからこそ、出来る限りどんな仕事であってもそこには可能な限り“対価”が発生してほしいなと思っています。

それは何も“自分がやった仕事に対しての対価”という意味だけではありません。

当たり前ですが、“誰かがやった仕事に対しての対価”も発生してほしいと思っていますし、誰かが何らかの仕事をしたらそれに見合った対価が十分に支払われることを願っています。

とは言え、もちろんこの世界には“対価”が支払われない仕事が存在することも知っていますしある程度は納得しています。

そして、“その仕事を依頼する側”と“依頼を受けた側”での双方の納得があるのであれば“対価”が存在しなくたって何の問題も無いとは思っています。だからこそ、僕や仲間も“対価”が発生しない仕事を請け負うこともあったりします(もちろん、そこには自分たちが納得のいく理由が存在していることが絶対に必要ではありますが)。

ただ、僕たちの仕事の特徴として“質量や形が伴う物質”を提供するわけではないし、同じく物質としての材料や設備が必要なわけではありません。

だからなのか、受け取った側とすると“受け取ったモノ”が“誰かの仕事の結果”だと認識することが容易ではない場合があるんじゃないだろうか?なんて考えないと整合性が取れないようなことがこれまでに起きたりしていました。

もう少し平たく言えば「もっと質が良いモノをもっともっと提供してくださいよ、無料で」と受け取れてしまう要求が、直接的にだったり遠回しにだったりと突きつけられることがありました。

思い返してみれば、僕自身も「もっと質が良いモノをもっともっと提供してくださいよ、無料で」というマインドで生きていた時期がその昔にあったことを自分自身でハッキリと覚えています。

そして、その頃の自分自身を明確に「クソだった」と恥ずかしく思っていますし、二度とああいう自分に戻らないように戒めとして常に思い出すようにしています。

「自分自身がその昔そうだったんだから、そりゃあそういう人だってたくさんいるだろうに」

そう思うようにもしていますが、今の僕からすると、そしてウチの会社の考え方からすると、冒頭のCMキャッチコピーのように「世界は誰かの仕事でできている」と考えているので、「無料でもっとよこせ」というような“搾取”とは対極にいるのが今の現実です。

だから、そんな“搾取の姿勢”を向けられた時には、それに応えることはしないようにしています。

「それは、ウチではできません」というように。

ウチの会社が、そしてその会社の片翼を担っている僕が“搾取の姿勢”に与するということは、自分達が掲げて大事にしているモノを自分自身の手でぶち壊すことと同じだと考えています。

だから、僕たちが“仕事”として何かを引き受ける以上は、僕たちが納得のできる“対価”を必ず要求するようにしています。

もちろん、それがいわゆる“お金”では無い事だってありますが、それでも無条件のロハで引き受けることはありません。

まあ、いわゆる“プロ論”というようなことで考えると当たり前と言えば当たり前の話ではありますが、その辺りも「自分達からしたら、やろうと思えば一円もかからずに、すぐに出来てしまうこと」だったりもするので、この辺りはいわゆる「一円でももらったならプロだから」というようなプロ論とは少し違うよなぁ、なんて思ってもいるところです。

一円ももらわなくても“やる仕事”もありますし、どれだけの大金を積まれたって“やらない仕事”もあるわけです。そこに必要なのは、僕と仲間の納得が一番重要ですし、その仕事を依頼してきてくれる人の熱量や想いや理念や志などが無ければ納得することは無いだろうなと思っています。

何しろ、僕は今のこの仕事を「やりたくてやっている」わけではありません。

上の方にも書きましたが、“自分にできること”で且つ“誰かの役に立つこと”を仕事にしようと思って、今の自分達の会社を起こしましたし、この仕事をしているわけです。

言ってみれば、「仕方なくこの仕事をやっている」という言い方が近いような気もしています。

もっと何でもできて、誰からも必要とされる人間だったとしたら、この仕事をしていない可能性はとても高いんじゃないかと思っています。

だけど、現実世界の今の僕は、他のどの仕事よりも“この仕事”が一番向いているし、“この仕事”をしているのが最も“他者の役に立てる”ということがこの47年の人生を通じて明らかになっています。

だから「やりたいかどうか」とか「好きかどうか」ということではなくて「役に立つからやっている」わけです。だからある意味では「仕方なくやっている」と言えるんじゃないかと思っています。

そして、どんな理由でやっていようが、僕がやるとしたら、この世界の“役に立つこと”で考えると“この仕事”が最もそうできているので、「世界は誰かの仕事でできている」の一部を僕も担えていることには、どれくらいの分量かはわかりませんが「嬉しい」と感じているので、ひとまずはそれだけでも「向いている」と言えるんじゃないかなと思っています。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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