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厄介なモノはいつだって目に見えない

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

ここのところ毎日寒い日が続いてます。

群馬で暮らすようになって、そろそろ10年位経つんですが、この冬の寒さにはなかなか体が慣れてくれません。

上州の特徴として『かかあ天下とからっ風』と言われていますが、群馬に住み始めた当初は、季節が春だったので群馬を表すこのフレーズの後者について、「きっと寒いんだろうけど、冬はどこにいたって寒いからなあ」と、そこまで深く考えずにいた事を時々思い出します。
今となっては、「なぜ、あの頃の自分は、何の根拠も持たずに、群馬の寒さをなめきっていたのだろうか?」と思わずにはいられません。

僕が、「寒さに弱い」と自認しているのは、単純に寒いと極端に動きが鈍くなるというのがあるんですが、そこはいわゆる精神論でなんとかカバーできなくもないかなとは思っています。なので、寒くて動きたくなくなるのは、僕の意志の力次第でどうにでもなってしまう事だというのは自覚しています。
なので、どれだけ寒い冬の日でも、気合を入れて「頑張れば」何とかなる事はたくさんあります。

でも、寒さが影響する事で、自分の気合だけじゃどうにもならない事も時々起こります。

冷たい空気を吸うと気管支がダメージを受けて、呼吸がしづらくなったりします。このダメージがちょっと大きくなると、これに加えて咳が出始めます。いわゆる喘息のような状態です。自分の意志とは無関係に、呼吸がしづらくなって苦しくなって咳が出ます。なので、冬はもちろんのこと、春先や秋の気温が低い時なども含めて、外で運動をする時には結構気を遣わないと、この症状が出てきたりするので、「外をジョギングする」が出来なかったり、子どもと全力で鬼ごっこをしたりするのもある程度体力に余裕を残しておかないと、すぐに症状が出始めたりする事もあります。呼吸がヒューヒュー言ってくると大ピンチです。

どんなシチュエーションで咳が出るのか自分自身ではある程度は把握できているのでそれ程大事に至る事はありませんが、一旦なってしまうとこれが、実に厄介なんです。

咳を出したくないような状況でも、自分の意志とは関係なく咳が出てしまいます。
人がいる場では当然マスクをつけますが、今のご時世だとちょっと咳が出てしまうと、なんとなく視線を感じるような気がしますし、「申し訳ないなあ」という気がしてしまいますので、可能な限りは咳が出ないようにマスクの下では我慢をしているんですが、これがなかなか堪えきれずに咳をしてしまう事があります。

ここ数日、まさにこの状態が続いていて、なかなか苦しい日々を送っています。呼吸を浅めにしないと、いつ咳が出るのか怖いし、咳が出始めると苦しいしで、この状態だと「深呼吸する」っていう、平常時だとリラックスに繋がる事に対して軽く恐怖を感じるし、「深呼吸するぞ」って決心しないとできなかったりするんですよね。


もちろん発熱やその他の症状も無いのと、病院で診察をしてもらい(流行り病の検査もして陰性でした)、処方された咳止めの薬を飲んだり吸引したりしていて、ただ咳が出ているだけなのは分かっているんです。
病院の先生や家族や会社の仲間や僕自身はそれを理解しているんですが、それ以外の方から見た時には、(今の状況では当然だとは思いますが)きっと不安になったりするんだろうなと思うので、見知らぬ人に脅威や不安を与えないように、出来る限り外出控えているここ最近です。もちろん、出来る限り控えているだけなので、必要があれば外出もしますが、外出先で自分の周囲に人がいる際に咳が出そうになった時には、文字通り、「全身全霊の力を込めて咳を抑え込む」という行為をしています(この時の僕の様子は傍から見てもかなり異様だと思うのでこっちの方が脅威や不安を与えているかもしれません)が、それでも、咳は出ちゃうんです。
なので、体調や運動機能には一切の支障も無いし「陰性」のお墨付きもあるんですが、現状はジムに行って運動をするというのは止めています。

そんな今の状況で思うのは、「自分が理解して欲しいと思う事柄は、自分から発信していかないと他人に伝える事はできないのは当然だけど、現実的には、自分が理解して欲しいと思う事柄を他人に伝えようとすれば、もはやその伝えようとする行為自体で相手に脅威や不安を与える事になるだろうし、伝えたところでその人が受け入れるかどうかの壁が待っているし、そもそも実際にその伝える行動をとる事は、現状ではごく身近な間柄じゃなければ不可能であるので、自分の理解して欲しい事柄を他人に理解してもらえるはずは無いし、受け入れてもらえるはずも無い可能性が極めて高い」という事です。

ちょっと長くてわかりづらくなりましたが、一言で言うと、
「この状況だと、如何に空気を読めない(?)僕であっても、周囲の人を気にして生きていくようになります」という事でしょうか。

この流行り病によって、喘息持ちの僕にとっては、急激に生きづらさが増してきました。

そんな、「今の状況に生きづらさを感じている」という自分の状況について、「この生きづらさを生み出してる根本的な部分はなんだ?」と考えてみました。

今考えているのは「目に見えない」という事が一番なのかなと。

「流行り病の源」が、もし、目に見えるモノであれば、仮に検査が陰性だったとすると、咳をしてもそこに「流行り病の元」が含まれているかいないかを見極める事が可能になるので、[咳をする人]としては適切なエチケットだけ気にしておけば特に人の目を気にする事もなくなるだろうし、[咳をする人の周囲にいる人]としては、そもそも怖がる必要が無くてストレスが軽減したりして。そもそも、目に見えるのであれば、あらゆる人が「適切な対応」をとても自然にできたりするのかなと。

でも、現実はそうではなくて、「目に見えない=怖さ」に直結している気がします。

極論すれば、「検査をして陰性だったからって、今この瞬間に『流行り病の源』が体内にいないとは証明できないだろう?その咳だって喘息の咳かどうかわかったもんじゃないよ」と言われてしまえば、もちろんその通りですし、それに反論する術もモチベーションも僕には持ち合わせがありません。もうこの瞬間からキャリアになっている可能性は、いつだって無いと断言する事はできないわけですから。
そうなるとこれは、「見えないからわからない」という理由があるからで、それって、得体のしれない不安や恐怖を感じるには、充分過ぎる程に充分な理由なんじゃないかなとも思うんです。
何しろ、[咳をする人]である僕からしても、「目に見えない=怖さ」という部分では、「もしかしたら自分がキャリアになっていて、誰かに感染させてしまうかもしれない」という怖さがあったからこその検査だったわけなので。

とは言え、今のところは、僕が家の中で過ごすのがとても好きであるという自分自身の特性と合致している状態なので、どこにも行かずにずっと家の中で過ごす休日は楽しめていますし、とりあえずこの三連休はどこにも行かずに家の中でじっとしていようとは思っています。この期間で、咳が少し治まってくれればいいんだけどなあと思いつつ。

だけど、家に居て、時間があるからこそ感じる「生きづらさ」なのかなとも思うんです。例えば、これを書いている今のように、一人っきりで咳をしながら苦しんでいるときなんかは、特にそう感じる瞬間です。

最後になりましたが、これだけはお伝えしていきたいなと思っているんです。

時々、「そんな風には見えない」と言われたりするので、もしかしたら誤解をされている方もいらっしゃるかもしれませんのでお伝えしておこうと思いますが、こう見えて、僕は、結構体が弱くて、思っている以上に“か弱い”ので、今後ともどうぞ今まで以上に「優しめ」に接していただけると、とても嬉しいです。

どうぞよろしくお願いします。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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