僕と彼を繋いでいるのはリードだけではないはずだ

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

日曜日の昼間に犬の散歩をしている時、ふと「コミュニケーション」について考えました。

我が家にいる犬は、前の飼い主さんがとても愛情を注いでしっかり躾けられて育った由緒正しいとても賢い犬なんです。でも、諸事情によりそこで飼い続ける事が難しくなり、ひょんな縁から、我が家に引き取られてきました。だから、来た当初から、全く手がかからなくてとても大人しい犬なんです。

散歩では、一本のリード(あれは紐なのか、綱なのか)を介して、一緒に歩きます。歩きながら僕は時々話しかけるんですが、もちろん返事はありません。日本語は通じませんし、そもそも「言語」という概念を持っていないであろう相手です。だから、単純に考えると意思の疎通は出来なくて当然なはずですし、意思の疎通が出来ると思うのはもしかしたらヤバいんじゃないのかとさえ思ったりします。

だけど実際には、「彼が何を考えているのか?」結構わかる事があるんです。
例えば、「オシッコをしたい」とか「こっちに行きたい」とか「楽しい」とか「疲れた」とか「ごはんくれ」とか。

「犬飼ってればそんなの当たり前じゃん」という声が聞こえてきそうですし、僕もそう思ってました。でも、ホントにこれって「当たり前」なんだろうか?と、今日もそうですし、よく思う事があります。何しろ、「言語」は通じないんですから。

そう考えると、確かに彼が我が家にやってきたばっかりの頃は、今よりも彼とのコミュニケーションがうまく取れていなかった自覚があります。僕も彼も、お互いに「どうやって接すればいいのか?」というような空気感があったように感じていました。と言うか、「おまえ誰?」くらいの扱いだったような気さえしていました。

そんな空気感も、一緒に暮らしていて顔を合わせる時間が増えたからなのか、徐々に僕にも慣れてきたようで、今では自然な感じで散歩が出来るようになりました。どのくらい自然かと言うと、彼と一緒の散歩では、大して長くないリードにテンションがかかる事がほとんど無いんです。つまり、彼が先導する形でむやみに引っ張ったり、僕が歩く方とは別の方向に犬が行こうとしたりという事がほとんど無く、常に僕の隣の適切なポジションにつかず離れずいるような感じです。なんだかとても自然な感じで、ほとんどの場合は僕が歩く方向に自然に彼がついてくる形でのんびり散歩ができるんです。

僕が何かを話しかける。彼は時折電柱の匂いを嗅いだりマーキングしたりしながら歩く。その間、「言語」による相互コミュニケーションは皆無。だけど、僕からしてみれば、話を聞いてもらえていない感じも無いし、彼の意思を無視している感じも無い。そもそもの関係性から言えば、僕は彼のご主人様では無いし(そもそも僕はそれほど彼の世話をしていないしご飯をあげる機会もとても少ないので)、彼も僕に忠実なわけでもないでしょう。だけど、お互いに隣に相手がいるのを感じながら、目線は進行方向や景色を眺めながら、特に相手に目線を向けるわけでもなく、だけどリードに余計なテンションがかからないレベルで相手と同調して歩く。お互いの存在を無視しているわけではなく、かといって相手にずっと意識を向け続けているわけでもなく、人と犬という全く別の生物でありながら、非常にフラットで対等な関係性があるような感じがするんです。

こうやって書いてみると、あらためて思うのは、「かなり高度なコミュニケーションがお互いに取れているな」と。

そうすると次に浮かんでくるのはこういう問いになります。

「人に対して同じように出来ているか?」

う~ん・・・。

答えは、「出来ている時と出来ていない時がある」になりますし、そうすると、「じゃあ、出来ている時はどんな時か?出来ていないときはどんな時か?」という問いが即座に浮かんできますし、「犬だと出来るのに人だと出来ないのはなぜか?」とかになりつつ、「そもそもコミュニケーションとは何か?」という問いにも繋がっていきます。

「犬が何を考えているのか」本当の意味での理解は、僕には到底できません。
なぜなら、僕は犬じゃないし、犬であった事も無いし、そもそも犬であれば皆が同じ事を考えるのかどうかもわからないし、よく言われるように「思考は言語で行われる」のであれば、犬は「思考」をするのかどうかもわからないので。

そもそも、僕にとって彼は「犬という種類の獣である」という認識が根底にあるので、「言えばわかる」とか「彼は特別だし大丈夫」なんて安易に考えたことは一度も無く、「彼にとって気に入らない何かがあれば文字通り自分を含めた誰にでも何にでも牙を剥く事はあり得るだろう」とはいつも考えています。どこまでいっても、彼は犬という獣なので、後先の計算をして生きているはずはなく、「今この時」で生きているんだと認識しています。だから、いつだって彼に対して100%安心しきっている事は、僕はありません。

だけど、起きている現象を見てみれば、彼と一緒に穏やかに散歩したり、彼をかわいがったり、彼と遊んだり、といった感じで平穏無事に暮らす事ができています。今のところ、彼が何の危害も加えてこない誰かに対してむやみに吠えたり、僕を含めた人間に噛みついたりした事は一度もありませんので、僕が望むような「共生」が実現しています。

つまり、「僕にとって、望んだ結果が得られている」という状態が実現しています。

散歩中の彼が、僕に対して「本当に気に入らない」となれば獣の本性を全開で襲いかかってくる事だって可能でしょうし、そもそも気に入らなければ「散歩になど行かない」し、僕が「近づいただけで唸る」という事だって可能です。
そういう緊張感に満ち満ちた生活に陥る選択肢だって、毎日の中には存在しているはずなんです。でも、それが無い。

つまり、「彼にとって、望んだ結果が得られている」という状態も実現していると考えられます。

この僕と彼の間に存在する「望んだ結果が得られている状態」は、「コミュニケーションが良好です」と言っても良い状態なんじゃないかなと思うんです。

例え、そこに「言語」が存在しなくても。
例え、そこに介在するのが「リード」だけだったとしても。

そんな事を考えた休日でした。


あれ?
そういえば、昨日庭でバーベキューしてる時は、「ダメ」って言ったのにお皿にあった肉を舐めていたのを思い出したぞ。

これでも、コミュニケーション取れてるのか?


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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