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繰り返してみたら何かいい事あるかもね

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

自転車を乗れるようになってしまうと、乗れなかった時の感覚が細かく思い出せなくなってきます。

キレイなフォームでボールを投げられるようになると、ぎこちないフォームで投げていた時の感覚は思い出せなくなってきます。

PCのキーボードをタッチタイピングでスムーズに打てるようになってしまうと、一文字ずつキーボードを見ながら打っていた時の感覚が思い出せなくなってきます。

例えばそんな風に、様々な行為において、基本的な動きを繰り返す事で、いつの間にかその動きを意識しないでも使えるようになっている事に気が付く時がやってきます。

時折、その行為についてセンスがあるという人だと「ちょっとやってみたらすぐできた」という話も見聞きしますが、基本的にはこれらの様々な行為において「自然にできるようになった」という段階に至るまでには、かなりの反復動作が必要になってくるというのがほとんどなんじゃないかと思っています。

これを、“練習”とか“訓練”とか“鍛錬”とか“稽古”とか“修行”とか、その状況や環境によって色んな呼び方をしているんじゃないかなとは思うんですが、こういう時間の積み重ねを経ないと「自分が思い描くような完成度の行為の形」を実現することが出来るようにならない事ばかりというのが、この世界の中における「行為」について回るモノなのかなあと感じる事が、たくさんあるような気がしています。

自分の体を使ってする数多有る“運動”も当然そうですが、外側から見ても明らかに目に見えるような体を使った動きとは少し性質の違う頭脳の運動とも言える“思考”という行為もそうなっているんだろうなと思えてきました。

一口に思考と言っても、これも色んな局面において必要な“思考の形”が全然違うなあと思いますし、自分で認識している“得意な思考”と“苦手な思考”というのも結構明確に見えてきている部分もあるよなあと自覚しているつもりです。

こうやって“文章を書く”というのも一つの“思考の形”だと思いますし、自分の仕事に絡めて言うなら、“他者の話を聴く”というのも“思考の形”だと思いますし、“聴いた話の中から課題を見つけていく”というのもそうでしょうし、“見えてきた課題に対して解決策の仮説を立てる”というのもそうでしょうし、“実際に組織の中で対話によって実施するための策を練る”というのも、全て思考の形なんだろうなと。

そんな、今の自分にとっては“日常的に行っている当たり前の思考の形”だと捉えているようなモノも、他の人にとっては“日常的に行っていない真新しい思考の形”だったりするわけです。

もちろん、他の誰かにとっては“日常的で当たり前の思考の形”が、僕にとってはその逆になっているというモノもそれこそ山ほどあるわけです。

だけど、そんな“日常的に行っていない真新しい思考の形”だからこそ、日常的に自分の中には出てこないんですから、その思考の形に慣れるというのは途轍もなく難しい事でしょう。

なぜなら、真新しい思考の形に慣れるには、練習や稽古や修行と形容されるような反復行動が必要になってくるからです。

もちろん、この反復行動をあまりしなくてもすぐに順応出来たりする人もいるでしょうが、それはいわゆる「センス・才能がある」と呼ばれるようなその人の特性みたいなモノだったりするわけで、僕のような「センス・才能があるわけではない」人にとっては、どうしたって必ず反復行動が必要です、

そして、反復行動はその行為が「自然にできるようになるまで」続ける必要があるわけですし、同じ行動をできるようになるまで反復し続けるというのが、僕も含めた多くの人にとっては物凄く難しい事に感じられるわけです。そして、それが苦痛に感じられる時もあったりします。

そうなると、その反復行動を継続するのを止めてしまう事も出てきますし、必要だからやっていたはずのモノではない全然別物を「これでいいかな」なんて勝手に変換してしまい、当初思い描いていた“必要”に対しては“役に立たない”行動をとり始めてしまうなんて事もありますし、僕自身も思い当たる節が多々あります。

キーボードのタッチタイピングをしたいはずなのに、いつまでもキーボードを目視しながら打っていたって出来ませんし、新しい思考法を出来るようにしたいのに今まで通りの思考のクセに頼ってしまっていたらいつまで経っても今までのままです。

だから、本当に必要だし、本当にそれをやりたいと思うんだったら、慣れないし苦しいけど「これも修行だ」と認識して、新しい行動を「できるようになるまで」やり続けるしか道は無いわけです。

確かにそうやって出来るようになってきた事がたくさんあるのを、自分自身が意識しなくても出来ている事を思い返してみると理解できるはずなのに、なぜだかそういう事をすっかり忘れてしまっているというか、思い出さなくなっているというか、今の自分はもっと軽々出来るようになるとでも思っているというか、すぐ飽きてしまうというか、どれが本当の理由かも分からないし、全て本当の理由かも分からないけど、とにかく今の自分は「新しく取り組んだ事が、なかなか継続出来ていないなあ」と思うような事ばかりあるような気がしています。

体を使った運動でも、頭を使った思考でも、とにかく「今は出来ない事でも、反復していれば今よりは出来るようになる」のは間違い無いはずなので、思ったように進捗していなくても、思い描くように実践できなくても、昨日の自分と比べた時に、ほんの少しでも上手になっていたり良くなっていたりすれば、一旦は「それで良し」としておきたいなと思っています。

確かに、「ちょっとやって劇的に上手くなってたりして欲しい」と思う事はよくありますが、やっぱりどうしたって凡人である自分がそんな風に出来る事なんてありはしないという現実をこれまでにたくさん体験してきているわけなので、その現実は現実として、それでも反復をしているのであれば、昨日よりはマシになっているでしょうし、それを希望として練習だったり稽古だったり修行だったりを続けていけるような“強い人”でありたい。そんな風に思うんです。


こうやって、思いつくまま書いてみた事で、自分が思い描く“強さ”というモノの要素の一つが見えてきたような気がするのも、noteを書くという反復行動の賜物なのかもしれません。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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