気付きは遅延してきたりもするもんだ
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「あれは、技術的問題だったのか!」
それに気が付いた瞬間、頭の中に電気が点いたような感覚がありました。
実際にその対象として考えていた“あれ”は、もうかれこれ10年近く前の仕事の中で遭遇したモノでした。そして、その頃の僕には、今日気が付いた事に気が付く力はありませんでした。
なので、その当時“あれ”について理解できない事柄や実行する事が出来なかった事柄については、「センスが無いから」とか「才能の問題だよね」とか、そういう事にして考えることを止めていたんだろうなという事にも気が付くことができました。
そんな「不足しているセンスとか何らかのモノ」は、その“あれ”の分野について僕が自分の持っている時間や労力や頭脳などを投入しないから伸びないモノなんだろうなと思っていました。
つまり、僕は“あれ”についてを「適応課題だと捉えていた」という事だったんだというのが、ここにきてようやくハッキリ見えてきました。
これはもちろん、今日までこんな事を“あれ”について考える事すら無かったことからも、冒頭の「あれは~!」が無ければ分からず終いだったことなのは明らかですが、気が付いたからと言って、今から過去まで時間を遡ってやり直す事は当然ながら出来ません。
だけど、今から過去までの「自分自身が考えてこなかった事柄」について“今のこの自分”で考え直してみるという事は出来るわけです。
そして、それをやってみました。
そしたら、今までずっと「適応課題だと思い込んでいたモノが、実は、技術的問題だったのかもしれない」と思えるような事が段々と出てきていて、そうだとするならば、「もう本人がどうするかだけの問題だよ」と半ば諦めが入っていたような事柄についても、「技術や知識でサポートすれば何とかなる事なのかもしれない」と思えてきたんです。
例えば、その中の一つに“デザイン”というモノも入っているのかもしれないと、今は考えています。
先日、知人が「デザインの学校に通い始めた」という話を聞いたんです。
学生時代の美術の成績がとても悪かった僕からすると、“デザイン”とか“アート”という言葉は、この世で最も縁遠い世界のような気がしていますし、実際、美術館に行ってみても何が何やらさっぱりわからず、そもそもどうやって楽しむモノなのかとんと見当もつかないので、大人になってからはあまり足が向く事がありませんでした。
そんなコンプレックスのようなモノがあるからなのか、逆に興味を持って『13歳からのアート思考』を読んで感銘を受けたのも、もう1年くらい前の出来事なので、これを書きながらあらためてあの本をもう一度読んでみようと思っていたりしていますが、相変わらず縁遠い世界である事は間違いありません。
だけど、大人になってから、しかも働きながら「デザインの学校に通い始めた」という話をそれなりの身近なところで聞いたりすると(しかもどうやら楽しいらしい)、その学びに対する意欲への感心もさることながら、「もしかしたら、大人になってからでも身に付ける事が出来る技術的問題ということなんじゃないだろうか?」という自分にも出来るのかもしれないんじゃないかという期待感を持ってしまったりしています。
だって、“あれ”だって技術的問題だったんだぜ?
しかも、それを学んで身に付ける事に成功したわけだ。
だとしたら、“デザイン”も同じような類のモノだったりする可能性は?
あるかもしれないし、ないかもしれない。
だけど、それはやってみないと分からないという事だけは、ハッキリと分かり切っています。
じゃあ、まずは、やってみよう。
但し、今じゃない。
今は、同時並行の学びが数本走っているところだから、これがひと段落するまで一旦待つことにしておこう。
その間に、“デザイン”に関する本を読んでみたりしながら、自分の中の興味をあらためて探りつつ、今と同じ「やりたい」気持ちがその時もあったらやってみよう。
“デザイン”と同じように、「センスとか才能とかギフトとかそういった類のモノによって成り立つんだろうな」として、これまで自分の中で括って来てしまっていたようなモノについて、この期間にあらためて考え直してみようとも思っています。
それも、冒頭の「あれは、技術的問題だったのか!」というアハ体験があったからこその、新しい自分自身に向けての疑問の投げかけでもあり、対話でもあり、自己欺瞞の打破かもしれません。
ああ、てことは、結局「適応課題を乗り越えるための取り組み」というところで繋がってくるってことなのかもしれないんだなあ。なるほどね。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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