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あっちいってそっちいって綱渡り

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「他者とのコミュニケーションをとるのが好きです」

そう話してくれる方は、出会う人の数からするとあまり高くない割合だと感じていますが、「他者とのコミュニケーションが好き」という方は一定の割合でいるわけですし、逆に、「他者とのコミュニケーションがあまり好きじゃない」とか「嫌い」という方にも一定の割合で出会います。

この「好きor嫌い」が「得意or苦手」という言われ方をする場合もありますし、「好き」だからと言って必ずしも「得意」と表現されるわけでも無いので、一概に一括りには出来ないだろうなあとも思いますが、今日の話のポイントは実は「好き嫌い」でもなければ「得意苦手」でもなくて、「他者とのコミュニケーションをとる」というところだったりするんです。

僕の仕事柄、「他者とのコミュニケーションをとる」という事について、「好き嫌い」や「得意苦手」と表現している人達の話を聞かせてもらう機会がたくさんあったりするわけなんですが、これが結構な割合で、「他者とのコミュニケーションをとる」と表現されている中に、必ず「他者の考えているであろう事を“想像”する」という行為が多分に含まれているケースが多々あるんです。

もちろん、「他者の考えているであろう事を“想像”する」事について「良い悪い」という話をしたいわけではないんです。“想像”するのは当たり前といえば当たり前ですし、僕もしますし、誰であってもそれはするでしょうから。

だけど、「“想像”する」という事をしたうえで、その“想像”した内容を、「あたかも“事実”として扱おうとしているor扱っている」ケースがとても多いという現象についての話を今日はしたいと思ってこんな事を書いています。

あらためて書くまでも無く、“想像”したことは“事実”ではありません。

あくまでも、“想像”した人の頭の中に観念として存在しているだけの実態の無いモノでしかありませんし、その“想像”した内容が実際に現実に起きているかどうかは、あくまでも“想像”でしか無いわけなので“事実”かどうかはわかりません。

と言うか、むしろ、単なる“想像”しただけの時点では、「“事実”ではない」と断定する方が正しい可能性の方が高いでしょう。何しろ、“想像”しただけであり何の事実確認も行われていないという事が明白なんですから。

にもかかわらず、その“想像”をまるで“事実”かのように捉えたうえで、そこから更に“想像”を進めていって、自分自身の周囲の状況を(“想像”に“想像”を重ねた観念だけで“事実”だと)認定してしまって、それによって自分自身が実際にとる行動を決めてしまう。そんな事が現実に起きているのを数えきれないほど見聞きしてきています。

そして、これが「他者とのコミュニケーションをとる」という場面における登場人物たち全ての中で行われていたりするのも、実は、とてもよく見聞きする“あるある事例”だったりしています。

当然ながら、この「“想像”に“想像”を重ねた観念を“事実”だと認定してしまって自分自身の行動を起こす」という事が、人が集まった中で起きてしまえば、そこには「人間関係のもつれ」が生じるわけですし、その人達が「どれだけの“想像”を重ねたのか」によって、その「人間関係のもつれ」のもつれ具合はより複雑化していくのは当然です。

僕たちが組織開発で関わらせてもらう時には、常に“これ”に注意して話を聞かせてもらう事にしています。

「あの人はこう考えていると思うんです。みんなもそう考えていると思いますよ。だって普通そう考えると思うので」なんて話が出てきたとしたら。

あの人がこう考えているというのは“事実”ですか?

なぜ、あの人がこう考えていると思うのですか?

みんなもそう考えているというのは“事実”ですか?

なぜ、みんなもそう考えていると思うのですか?

普通はそう考えるというのは、どんな“根拠”から考えているのですか?

なぜ、普通はそう考えると思うのですか?


どこまでが“想像”で、どこまでが“事実”なのか?

それをあらためて一緒に考えてみるところから、「他者とのコミュニケーションをとる」という事を考えてみるということがあってもいいのかなと思っています。

それによって、実は、“想像”していたような事が一切起きていなかった、なんて事が明らかになる事だって往々にしてあるんです。

そうだとしたら、その人がとるべき行動は変わってくるかもしれませんし、変えた方がいいかもしれませんし、変えなければいけないかもしれません。

そうなれば当然ながら、その人の周囲で起きる出来事が変化していきます。

そしたら当然、その人の受け取る“事実”や“現実”は、とても大きく変化したように感じるでしょう。

それこそ、世界が一変するような体験になるかもしれません。

そして、そんな体験が出来たとしたら、それはきっとその人にとっては良い事でしょう。

なぜなら、“想像”を重ねた観念の中から出て来て、“現実”に直に触れる事になるわけですから、それは間違いなく良い事に違いありません。

そうして、“現実”を真正面から捉えて、“想像”ではなく“現実”の中で行動を起こし、“想像”ではなく“現実”の中で生きていくんですから、それは良い事に決まっています。

例え、それがその人にとって、苦しい経験や大変な経験に繋がるんだとしても。


とは言え、僕も経験があるからよくわかりますが、自分自身が“想像”を重ねた観念の中にいる時には、「まさかこれが“想像”を重ねた観念上の世界であるはずがない」なんて事を考える事も出来ないくらいには、“それ”が“現実”だと思えてしまっているんです(これは自分自身の体験もありますし、そこに陥っていた人達にたくさん会って話をしてきているので僕だけの妄想ではないだろうなと感じています)。

その「観念上の世界」から出て来て、“現実”を見つめるためには、自分が“想像”を重ねていた事を一つずつ“事実”かどうかを丁寧に確認して認識していく事が必要になってくるわけです。

「ああ、これが“事実”だった。さっきまでのは自分の“想像”だったなあ」という具合に。

だけど、これを受け入れるのは、時に途轍もない苦痛を伴います(これも散々体験したからよくわかりますが)。

だから、その“事実”を受け入れられず、これまでたくさん重ねてきた“想像”に固執してしまう人達にもこれまでたくさん会ってきました。

ただ、そっちの方向を選び取ってしまうと、どうしても「人間関係のもつれ」は解けることなく、もつれたままになってしまうし、もつれが更にもつれていってしまうのはどうしても防ぐ事が出来ません。

このもつれを、己一人の力だけで全て解いて解決したという人に、僕はこれまでに会った事がありません。

だけど、「他者のサポートによってこのもつれを解いた」という人には、これまでに何人にもお会いした事があります。

僕自身も、そのうちの一人だと認識していますし、僕の仲間もそうですし、手前味噌ながら僕達が仕事でかかわらせてもらってきた多くの人達もそうなんじゃないかなと思っています。

これこそがまさに、「他者とのコミュニケーションをとる」という言葉が表す一つの本当の姿であり、すなわち“事実”であり“現実”なんじゃないかなと思ったりしています。

“想像”が虚なのかどうかはわかりませんが、あくまでも、この“現実”が実であるという事だけは間違いようもありません。

もちろん、“想像力”は何においても重要ですし、“想像”を使って“仮説”を立てて、“現実”をより良く変えていこうとする営みもとても大切ですが、ここで重要なのは、“想像”はあくまでも“現実”を前提にしているからこそ重要なわけです。

“想像”を重ね、“想像”に合うように“現実”を捉えてしまったら、“現実”の見え方はいとも簡単に変わってしまって、“想像”を主にして“現実”での行動を決定してしまうことに成り兼ねません。

だからいつでも“想像”を“事実”に照らし合わせて、“現実”がどうなのかを客観的に見極めようとする事は怠らないようにしなければ。そう自分に言い聞かせて、収集する“事実”が自分にとって「都合の良いモノだけにならないように」気を付けないといけないよなあ。なんて事を考えています。

あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、はたまた向こうへ行ってみたり、そっちも行ってみたり。

そんな風に、傍から見ても、自分で振り返っても、それはそれは危うい状態でさながら綱渡りをしているかのような危ういバランスを取りながら、どうにかこうにか“現実”を渡っているような気がしてきましたが、日々の自分自身の状態を“事実”に基づいて振り返ってみると、これはきっと気のせいではなく僕の“現実”なんでしょう。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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