嫌われ者の哀歌
どうしてこんな話をするんだろう?
それを言ってしまうと、今までやってきたことが全て無に帰すような、全て台無しになってしまうような、そういうことに繋がっていっちゃう可能性が高くなるけど、それが本当にわからないのかな?
今言ってることは、少し前まであなたが一生懸命に頑張って取り組んできたことを台無しにしてしまうよ?
それを良しとしてしまうと、これまでにあなたと一緒に「変えていかなくちゃね」と言って頑張ってきた仲間を切り捨てることになっちゃうよ?
本当にそれでいいの?
もしも、本当に“こんな話”が大事でそうしていきたいということだったら、もっとハッキリと「今までやってきたことは全部ムダでした」って言ったらいいんじゃない?
どうしてそうやってどっちにも良い顔をするようなしょうもない話をするの?
「それを言っちゃあお終いだよ!」ってなっちゃうでしょ?
他社の組織開発に関わらせてもらっていると、こんな数々の疑問や疑念が湧いてくるような状況に遭遇することが時々あったりするんですが、そういう時はハッキリと自分でも自覚できるくらいに“怒り”が湧いてきます。
かなり明確な感情なので、ついついそれをそのまま相手にぶつけそうになるんですが、こういう状況はほぼ全てが“仕事”の中でのことなので「相手にそのままぶつけるわけにはいかないだろう」ということが頭に浮かぶくらいの理性は残っていますし、自制することもできています。
この“怒り”の理由を振り返ってみると、「今までみんなで一緒にやってきたのになんで全て引っ繰り返すようなことを言うの?」とうい戸惑いや理解のできなさや裏切られたような気持ちやそんな諸々があるんだろうとは思っています。
でも、目の前の相手が“こんな話”をしていることも事実なので、きっとそこには何らかの理由があるんだろうとは思うんです。
できればその理由も聞きたいところですが、今までの経験上“こんな話”を“こういう話し方”でしている相手が「自分がなぜ“こんな話”をしているのか?」ということを理解できていることはありませんでした。
だからその理由を聞くことに時間を費やすよりも、今している“こんな話”を実践していったとしたら、これまでも今も自分自身が「困っている。なんとかしたい」と言っていた事柄を解消するために“役に立つこと”になるのかどうかをあらためて考えてもらうことにする。こんな状況に直面した時には、いつもそうすることにしているので、相手がしている“こんな話”が“役に立つこと”なのかどうかを確認するための質問を投げかけることにしています。
そうして相手に“こんな話”についての質問を投げかけてみると、必ずと言っていいほど「喰ってかかる」ような反応が返ってきます。
大抵は、目を剥いて、やや怒りの表情を浮かべて、怒気を含んだ声で、吐き捨てるような回答で、返答してくれます。
「そうだよね、こんな質問をされたくないよね」
そう思いながらも、相手の怒気には一切触れずに、相手が気を悪くしたかどうかには一切何の関心も示さずに、そのまま質問を重ねていきます。
そのやり取りを何度かする中で、いつも必ず目立った“矛盾”が出てきます。恐らく、僕と仲間以外に同席している人達もハッキリと気付くくらいの目だった“矛盾”を、その相手がハッキリと口にする場面が出てきます。
そうしてそこまでにたくさん積みあがっている“事実”を元にして“問い”を投げかけることで、何かに気が付いてくれることがよくあるケースです(もちろん、それをやってみても気が付かないというケースもあるわけですが…)。
僕たちの仕事の現場ではこういうことも起きるので、こんな風に「相手が絶対に聞かれたくないし向きあいたくないと“無意識”に思っていることを敢えて突っ込んでいく」ということを絶対にしなければならない場面が出てきます。
そして、日常の社内であれば誰からも聞かれもしないし話さなくていいし突っ込まれることもなかったような「突っ込まれたくない」と思っているところに、こうやって突っ込みを入れられて考えさせられて回答をさせられるような状況を作られてしまうわけですから、当たり前の話ですが、僕は相手から発せられる“敵意”のようなモノを正面から受け取ることになります。
もちろん僕も(一応は)人間なのでこんなことを思います。
「ああ、また人に嫌われたな。また僕のことを嫌いだと思う人が世の中に一人増えたな」って。
でも、すぐにこうも思うんです。
「誰かに好かれたくてこの仕事をしてるわけじゃないだろう」と。
誰かに好かれるかどうかよりも、“役に立つこと”をするのが僕たちの仕事です。もちろん、誰かに“嫌われる”ことを敢えてやる必要もありませんが。
でも、“成果の出るいい組織(チーム)をつくる”ということをやろうとしたら、そのために“役に立つこと”をしようとしたら「変わりたくない・変えたくない」と思っている人にとっては“嫌なこと”を言われたりされたりすることが大なり小なり出てくることもあるかもしれません。
そしたらきっと、“それ”をやる人に対して“好感情”を抱くことは難しいはずです。それはきっと当たり前のことなんでしょう。
とは言え、別に「嫌われよう」とか「嫌われたい」と思っているわけではありません。
でも、誰かに「好かれよう」とか「好かれたい」なんて思っていたら、自分の中にそういう気持ちが強く存在していたとしたら、絶対にこの仕事はできません。
だからいつもこう思うようにしています。
「まあ、誰かに嫌われたとしても、いい組織をつくるために“役に立つこと”に繋がるならそれで充分だしそれでOkでしょう」
とは言え、もしも“嫌われ者”をやらなくても上手くいくのであれば、こういうことをやらずに済むのであれば、できれば僕もそっちの方が平和でいいんだよなぁ、なんてことをクヨクヨ考えたりもしているので、やっぱり“嫌われ者”になりたいわけでは無いんだろうし、人に嫌われることで傷ついたりしてるんだろうなと、また少し自己理解が深まっていきます。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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