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いつだってそこはまだ途中なんだから

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「そんなことやったって無駄だよ」

組織開発をするために企業に関わらせてもらっていると、その企業の人から、こういう言葉を直接投げかけられる事が時々ありますし、「…という事を言っている人がいますよ」なんて教えてもらえる事なんかがよくあります。

そんな時にいつも思うのが、「無駄かどうかは、いつ、誰が、どうやって判定するんだろう?」という疑問が湧いてきます。

「そんなことは無駄である」という判定をするためには、判定する人の中に何らかの“判定基準”が無いことにはそれが“無駄”か“無駄じゃない”かはわかりません。

だとすると、「何かが“無駄”だとわかる」という事は「何かが“無駄じゃない”という事がわかる」という事なので、“無駄な物事”と“無駄じゃない物事”について既に知っているのでなければ冒頭の台詞は言えません。

だとすると、「そんなことやったって無駄だよ」という言葉を言っているその人は、今目の前で行われている“この組織開発”と寸分たがわず同じモノを試した事があるという事になってしまいます。

もし、今目の前で行われている“この組織開発”と寸分たがわず同じモノを通過してきた結果、「無駄だった」という事を経験した人であれば、その人が判定する「無駄かどうか」についての意見を聞き入れる意味はあるんだと思いますが、これが可能な人がもしいるとするならば、時間を遡って少し前の未来から今ここに戻ってきた“その本人”じゃないと、「今目の前で行われている組織開発が無駄であった」と判定する事は出来ません。そして、残念ながら、僕の知る限りではまだタイムマシンが開発されたという話を見聞きした事はありませんし、時間を自由に行き来できる人の存在を認識した事がありませんので、これはちょっと不可能なんじゃないかなと考えています。

というところまでが、「無駄かどうかを、いつ、誰が、どうやって判定するか」という話に関わる部分だと思います。

となってくると、「そんなことやったって無駄だよ」という言葉を発信している人自身も、もしかしたら、実際に「そんなことやったって無駄だよ」と考えてこの言葉を発信しているわけではないのかもしれないという気がしてきます。

何しろ、ここまで書いたように、「それ以前に、全く同じ条件・同じ状況・同じ環境で、同じ内容の取り組みをした経験は存在しない」というのは誰が見ても明らかですし、そうであれば、例えどんな取り組みであっても「それが無駄だ」と言う事はちょっと難しいだろうなあというのは、感覚的に誰でももわかってしまうでしょうし、実際に無理筋な話です。

だから、「そんなことやったって無駄だよ」という発信があるとしたら、これは一体何について言っているのか?という事を考えてみてもいいのかもしれません。

何しろ、この発信をしている人が「今の現状を“良い状況”にするための解決策」を持っているんだとしたら「そんなことしたって無駄だよ」という言葉のあとに、「こういう事をしないとならないんだから」という旨の言葉がくっ付いてくるのは間違いありません。

でも、「こういう事をしないといけない」とか「こういう事をした方がいい」という言葉が無いのであれば、それはきっと「今の現状を“良い状況”にするための解決策」を考えつかないだけなのかもしれませんし、策を考えようとしているわけでは無いのかもしれません。

ただただ、「今の現状が、変わってしまうのがイヤなだけ」なのかもしれません。

そこにはどんな理由があるのかは個別の事情なので全くわかりませんが、現状が変わるという事は、単純に、慣れ親しんだ状況や環境に変化が起きるという事なので、多くの人にとってはストレスが増える状態になるわけです。

だから、そのストレスを回避するために「現状が変わるのはイヤだ」という発信をしているのかもしれません。

確かに「現状が変わるのはストレス感じるからいやだな」と思う事は僕もありますし、色んなところでそういう言動は見聞きするので、誰でもそう思う事はあるはずです。

だけど、「組織開発をする必要がある」とその企業もウチも自他共に認めた状態なのであれば、これは出来るだけ早めに対処した方が良いことは明らかですし、早めに動けば早めに終わるでしょうし、結果的に良い事ばかりなのは分かり切っているんです。

ただし、簡単では無いですし、そこにいる人達が苦痛を伴う事は起きるでしょう。何しろ“変化”が起きてしまうはずなので。

ここで言う“変化”は、「万人が感知できる変化」という意味ではありません。その“変化”は感知できる人もいれば感知できない人もいるような“変化”です。

例えば、毎年5月5日に背比べをして柱の傷を増やしていくような目印があれば「自分の背が伸びた」という事を認識するのは簡単にできますが、じゃあ、その“背が伸びる”という現象を、1日ごとに実感できるのかと言えばこれは誰にとってもなかなか難しいわけです。例えば、毎日一緒に暮らしているであろう家族でも“1日ごとの背の伸び方”を正確に把握している人は恐らくいないでしょうし、ましてや本人には“1日ごとの背の伸び方”なんてわかりようもありません。せいぜいが、1年に何度かやってくる健康診断の結果での数値を比べてやっとわかるくらいなものでしょう。だからこそ、「5月5日のせいくらべ~」なんて歌にもなるんじゃないかなと思うんです。

組織の変化もそれと似たようなものだと思っています。

変化していく渦中にいる人たちは、よっぽど敏感な人はすぐに気付く場合もありますが、多くの人達は「事後的に振り返った時に」はじめて気付きます。

僕達のように外側から関わらせてもらう第三者であれば、明確に「どこがどのように変わったか」というのは明らかにわかりますが、それらの全てを数値化するのは不可能ですし、見える化できないモノを説明してもなかなか理解してもらえないということはよくあります。

だけど、今までやらなかった事を「やった」のなら「やった」わけですし、これまで出来なかった事が「できた」のであれば「できた」んです。それによって、今まで起きなかった事が「起きた」わけですし、今までよりも「良くなったこと」があるんだったら、それはとても「良い事」です。

そんな風に、注意深く詳細に丁寧に“観察”すると、見えて来るモノがどんどん増えて来て様々な角度から“解釈”が出来るので材料がたくさん増えてきて、その多くの材料をもった状態で、「働きやすくなる」ための“介入”するので、その結果“変化”が起きるわけです。

その“変化”は、注意深く詳細に丁寧に“観察”すれば大抵は見えてきます。

見えてきたモノを、見えている通りにそのまま認識して、本来の目的と照らし合わせてみることで、その“変化”が「良い変化」だったのかどうかの“解釈”が浮き上がってくるはずです。

ここまできて、ようやくやってきたことが「無駄だったかどうか」が見えて来るのかもしれません。

ここまで書いてみて、わかってきたのは、この話はまだまだここでは終わらないという事がわかりました。

なぜなら、この時点で「無駄だったかどうか」が見えてきたとしても、そこには必ずその後に「今の時点では」という言葉がつくはずです。

そういった取り組みが「無駄だったかどうか」についての判定は、あくまでも“そこまでの期間”という短期での取り組みについての判定です。

だけど、組織開発であっても、その組織を構成している“人”の取り組みという意味であっても、そんな短期で「無駄か無駄じゃないか」を判定するのは時期尚早なんじゃないかとも思うんです。

「もっと良くしたい」と思う組織になるまでには時間がかかってその形になっていますし、何しろ、まだこれからも組織の営みは続いていくでしょうし、続けていく必要があるでしょうから。

そんな風に考えているので、組織であっても人であっても、「今より良くなるために」するあらゆる取り組みは全て「無駄ではない」と、僕たちは考えています。

だって、今この瞬間も、いつか来るその瞬間も、そこはまだ途中ですから。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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