思い出と今を繋ぐブリコラージュの架け橋
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
小学生の頃、テレビでジャッキー・チェンの映画が放映されるのをいつも楽しみにしていました。
中でも、『ドランクモンキー酔拳』は今でも楽しく観れるくらいに大好きです。
そんな、ジャッキー好きな小学生だった頃、友達がこんな話をしていたのを、ふと思い出しました。
「お父さんと一緒に、山登りに行って、頂上でカップラーメンを食べようと思ってお湯を沸かしたんだ。そしたら、箸が無かったから、その辺に落ちてる木の枝で食べたんだ」
当時、その話を聞いた僕は、木の枝でカップラーメン食べるって何か汚そうだなあ、なんて思った記憶があったんです。もちろん、きっと木の枝は沸かして余ったお湯で洗ったりしたんだろうなあとか、たまたま木の枝が落ちてて良かったなあとか、もし木の枝が無かったらどうしたんだろう?とか、そんな事も思ったような記憶もありますが、「なんとかなった」という話を聞いて自分の事でもないのにホッとしたのは間違いありません。
こんな、30年以上も前の子どもの頃に友達が話してた休みの日の出来事の話を、この歳になっても覚えていたのにはちょっとした理由があります。
そんな大層な理由ではありませんが、僕は、これまでにも折に触れて何度も何度も“この話”を思い出すタイミングがあったからなんです。
そして、その思い出すタイミングはいつだって、「有りモノで何とかするしかない」という事を考えるに至ったタイミングでした。
そんな事を考えるタイミングが、僕の人生の中には、結構頻繁にあったという事なんでしょうし、冒頭のように「ふと思い出した」という事は、またもやそのタイミングがやってきたというわけなんです。
今、「有りモノで何とかするしかない」に該当する事と言えば、現在進行形で関わらせてもらっている企業の組織開発についてです。
その中でも、これから動かしていく必要のあるモノで、ちょうど色々考えていたところでした。
考えていた内容としては、詳細には書けませんがザックリ言えば「これまでに無かった新しい仕組みの構築」です(本当にザックリだなあ)。
その「新しい仕組みの構築」をするうえで、どんな風に進めていくべきかの大枠の設計を、社内で話し合いながら考えていたのが今日の事です。
その時参考にしていたのが、いわゆる“教科書的な文献”を基に考えようとしていたんですが、その内容が、関わらせてもらっている企業の実情とは全くそぐわないわけです。ただ、それが「どの辺がどんなふうにそぐわないのか」を見出したり、「どの辺にどういう風にしたらしっくりくるのか」を考えたりしようとしてみたんですが、これがなかなかどうして手ごわいわけです。
そこで、一旦その“教科書的な文献”を脇においやって、現状の問題点を「そもそも」から遡ってバーーーっと洗い出してみたんです。もちろん、僕たちにとっては既に把握して理解している事ばかりですが、何かしらの見落としがあるかもしれない可能性が無いかの点検も兼ねてともかくやってみました。
その辺で、仲間がこんな事を言ってくれたんです。
「やっぱり、有りモノで何とかするしかないんですね」と。
そこで、冒頭の話が、思い出されてきました。
「自分達は、新しい仕組みを作るという事に意識が向いていたけど、そんな形式に囚われるんじゃなくて、有りモノで何とかするのが、最もその組織に適しているし、それでしか当事者が当事者意識を持って使いこなしていくという事につなげる事はできないんだよな」
そう思えたところから、一気にミーティングの風向きが変わったのを感じました。
そこからは、それはもう、自分達でもビックリするくらいあっという間に、大枠が出来上がりました。ついさっきまで、あんなに悩んで考えていたのが何だったんだろうと思うくらいにスンナリでした。
でも、考えてみれば、さっきまでの自分達は、山頂でカップラーメンにお湯を入れて箸が無い事に気付いたけど「どうしようどうしよう」って言ってただけだったのかもしれません。
そして、友達のお父さんが「カップラーメンを食べるためにどうするか?」を考え、その辺の木の枝を探して箸の代わりにしようと思いついたのと同じように、「有りモノで何とかするしかない」と考えが切り替わったから、スンナリと「カップラーメンを食べる事が出来た=しっくりくるアイデアで大枠が出来上がった」わけです。
これぞ、まさしくレヴィ・ストロースの言う「ブリコラージュ」なのかもしれないなと。
「ブリコラージュ=有りモノで何とかする」という事から僕が真っ先に連想するのは、やっぱり大好きなジャッキー・チェンです。
ジャッキーが主演する映画の中では、大抵、身の周りにあるテーブルやイスやモップなどの周囲の環境を巧みに利用しながら敵と闘う場面が描かれます。それらの環境によってピンチを免れたり、形成を逆転したり、逆に利用されて追い込まれたり。
あんなアクションを真似してみようと、子どもの頃に何度も試みた事がありましたが、どうにも思うように環境を利用する事は出来ませんでした。子ども心に、「あの闘い方はとても難しいモノなんだなあ」と思った記憶があります。
あんな風に真似は出来ませんでしたが、ジャッキーのように、目的を果たす為には「有りモノで何とかする」という精神姿勢は、あの頃からずっと憧れてきたからこそ、今こうして使えるようになっているのかもしれません。
とは言え、映画の中でジャッキーが「有りモノで何とかする」なんて言葉を言っていた記憶はありません。でも、ジャッキーのあの戦い方は、「ブリコラージュ」そのものをまさに体現していたんじゃないかと、今は思えています。
「有りモノで何とかする」
これはすなわち、「もう既にそこにあるモノを巧みに利用していきましょう」という事に他なりません。
既にそこにあるモノを、別の角度で組み合わせたり、混ぜ合わせたり、切り離してみたり、全然別の事に使ってみたり。
そして、僕たちが観測してきたほとんどのケースでは、「既にそこにあるモノを巧みに利用する」ことで、様々な問題は解決に向かっていくものばかりでした。
つまり、必要なのは「既にそこにあるモノを巧みに利用する」ことで、何かを新しく持ってきたりする必要は無く、限りある“資源”を有効に活用するという、まさしく、真のサステナビリティに繋がるモノなのかもしれません。
これをわかっていながら、つい、「新しくつくる」ということ“だけ”に意識が向いたりしてしまうと、この度の僕たちのように、迷宮に迷いこんだりしそうになるわけです。
くれぐれも、「何かに囚われてしまう」事のないように。
ここに、よい反面教師がおりますので。
どうぞご参照下さい。
そんな僕は、いつだって、「木の枝を拾って箸代わりに使える」ような、あの友達のお父さんのように、慌てずに気軽に考えられて、身軽に動けるような、そんな風にありたいなあと思っています。
山頂での出来事の話を、友達から聞いたあの日からずっと。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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