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変わるのもそのままであり続けるのも難しいに違いない

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「このメンタリングで変化があった人っているんですか?」

当社が関わらせてもらっている企業でメンタリングを受けている方から、話の中でこんな質問を受けた事がありました。

「(このサービスの効果として)変化があったかどうか」

この質問は、今までにも何度とされてきましたが、聞かれるたびに毎回「とても難しい質問だなあ」と感じます。

もちろん、このサービスを提供している当事者としては、自信を持って「変化した人ばかりですよ」と回答する場合もありますが、往々にして、この質問をしてくる方は、その方自身が受けているサービス自体に対して懐疑的であったりしますし、何よりも、自分が日々仕事をしている会社内の状況が、自分の思い描く「働きやすさの実現」に向けて動いている様子が、自分の目には見えてこないし、そういう状況が起きているようにも感じられない事に対しての不安や不満を持っている事が多いなと感じるので、回答についてはどうしても慎重にならざるを得ません。

なので、僕は質問に対して質問で返す事があります。

「あなたは以前の自分と今の自分を比べて変化を感じていませんか?」

この時、僕に質問してくれた方は、少し考えてこんな風に答えてくれました。

「うーん、まあ、自分は、変わった感じがあるけど、他の人はどうなんですかね」と。

このケースのように、自分自身が変化を体感できたという自覚については、なかなか自分一人で受け止めて肯定する事って難しい事もあるんだろうなと、様々な方に関わっていて、よく思うんです。

もしかしたら、自分が「変化」だと感じているものは、実は「変化」でもなんでもなく、勘違いかもしれない。
もしかしたら、あの人が「変化」したと感じている自分は何かを間違えて捉えてしまってるのかもしれない。

こんな風に、「変化」についての判断を下すというのは、意外と難しい事なのかもしれません。

どうしたって、今現在生身の体を持って生きている「自分自身」という存在については、さっきと今を比べたりしても、昨日と今日を比べたりしてみても、先週と今週を比べたりしても、先月と今月を比べたりしても、もしかしたら、去年と今年を比べたりしても、身長も変わらなければ見た目も大きく変わらない。変わるとしたら、前に比べて増えた(もしくは減った)体重と、長く伸ばした(もしくは短く切った)髪型くらいのもの。目に見えるもので言うと、その程度だから、わざわざ強調して「変化」したなんて言う程のものでもない。そんな風に感じながら過ごす事もあるかもしれません。

だけど、それはあくまでも、自分から見た時の目に見える事柄だけであって、目に見えないところは「変化」しまくっている。なんていうのは、所謂、ミクロの世界の話としてよく言われています。

例えば、細胞レベルであれば絶えず入れ替わっているわけですし、何なら6ヵ月というとても短い期間で人間一人分の全細胞が入れ替わっているらしいので、厳密に言うと「自分自身」だと思っているこの生身の自分は、6ヵ月前とはそもそもの原材料がまるっきり別のモノに「変化」している状態だと言われています。
何しろ、時間の経過と共に、いわゆる「老化」をしているわけですし、その時点でもう、「変化」はしている。生きている限り「変化」をし続けているのは、生き物である限り仕方のない事なんじゃないかなと思うんです。

物理的な部分で言うと、明らかに「変化」している。
じゃあ、観念的な部分ではどうなのか。

これも、厳密に言えば、ウチがメンタリングで関わった瞬間から、それまでにその人の内面世界には存在していなかった、「プロタゴワークス」という存在と、そこから発せられる様々な考え方や物の見方や問いや受容や共感といった、新しい「刺激」を否が応でも受ける事になってしまうわけなんです。

そうなると、その新しい「刺激」に対して、「絶対に受け入れないぞ」という固い決意とか、「なんだかうるせーな」という払いのけたい気持ちとか、「そんな事は言われなくてもわかってるよ」という煙たがる気持ちとか、「そういう考え方も良いかも」という影響を受け入れようとする考え方とか、「その手があったか」という何かからの解放とか、そういった抵抗や反発や否定や受容や共感などといった、何らかの「反応」が必ずその人の内面で起きるわけです。

しかもその「反応」が起きている事を、当の本人は自覚が無いままの場合もあるわけなので、「反応」を自覚できていない場合には、その人の中では「何も起きていない」という認識になるわけです。
だけど、自覚していてもしていなくても必ず起きている何らかの形をしたその「反応」は、僕たちが関わる時間や期間によって、その人の内面世界に確実に蓄積されていくわけです。

その人が自覚するかしないかに関わらず、このメカニズムは必ず働いてしまうので、「変化があったかどうか」という問いについての回答は、大前提として「変化はあります」という事になってしまうのです。

もちろん、その「変化」が、その本人にとって望ましいものであるのかどうかは、僕たちにはわかりませんし(わかるとしたら、その人の言動が依然と変わったという事実が必要になります)、当然、事前にわかるわけもありませんので「どんな変化があるのか」について予測する事はできません(もちろん、僕たちなりの仮説を持って臨むのは言うまでもありませんが)。

だから、「変化があったかどうか」という問いに対する回答をする時には、慎重にならざるを得ないんです。
何しろ、その本人が「変化」を自覚しているかどうかや、起きた「変化」を好ましく思っているのか、それとも苦々しく思っているのか等も、大きく個人差があるわけなので。

とは言え、この時のこの方のように、自分自身に目を向ける事ができる内省的な人にとっては、実際には自分の「変化」を自覚するというのはかなり細かくできている事が多いなあと感じています。
ただ、その「変化」をきちんと「受け止める」、そして、「受け入れる」までを自分一人で出来るかどうかとなると、これはなかなか出来る人は多くは無いのかなとも感じています。

なので、僕は質問返しをしてみる事もよくあるんです。
そうすると、この人のように、問いの矢印を自分の内面に向けた瞬間に、ハッキリと自覚して「変化」を受け入れる人が結構たくさんいたりするんです。


「質問を質問で返しちゃいけないよ」とは、子どもの頃に誰かから言われたような記憶がありますし、「そういうもんなんだな」と子どもの頃から長年、人生のどこかのタイミングまではそれを守っていたような気がするんですが、よくよく考えてみると(と言うか、深く考えなくても)質問返ししちゃいけないとされていた理由として聞いたことがあったのは「相手に失礼だから」という理由だけだったんです。

「なぜ失礼なのか?」とか「本当に失礼なのか?」について考えてみると、それを説明してくれた大人は僕の周りには誰一人いませんでしたし、自分の中でも妥当性のある回答は今のところ見当たらないと思っています。
なぜなら、先に質問した人には「自動的に相手に尊重されて質問の回答を受け取る権利が発生」して、先に質問された人には「自動的に質問に回答しなければならない義務が発生」するというそのルールが、僕はちょっと如何なものなのか?と思うんです。

いえ、本音を言うと、「こりゃまた、ずいぶん理不尽なルールだな」と感じています。

だから、今は、質問に対して「なぜその質問をするのか?」という事を聞き返す事も、敢えて、厭わないようにしていますし、自分が質問返しをされても回答するようにしています。

これが正しいのかどうかはよくわかりませんが、「質問に回答するかどうか」とか「そもそも何を話すのか」については、質問を受けた人に決める権利があるんじゃないかなと、今は思っていますし、そっちの方が僕自身の精神衛生上とても良いなあと感じています。この辺も、哲学対話の8つのルールに共感する大きな理由の一つかもしれません。

こんな風に、僕も以前の自分と比べると「変化」していますし、誰でも「変化」はしているんだろうなと今は思っています。そもそも、エントロピー増大の法則ってのがあるようなので、それはつまり、そのままの状態ではいられないという事であって、「変化」は絶対起きてしまうという事なんだろうなと思うんです。

今こう考えている事すらも、いつか「変化」していくのかもしれません。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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