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もしも未来が見えたとしたら

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

今日、車が修理された状態で返ってきました。

色んな部品を交換して、数日前にはあんなに不安だったエンジンの音も、それ以外の部分も、素人でも明らかに違いがわかるくらいの変化を伴った復活です。それはそれはとても嬉しい出来事です。

交換された古い部品を、目の前にして「なぜそれを交換したのか?」という説明もしてもらえて、知識や技術についての日々の弛まぬ研鑽ぶりがハッキリ感じられるのも良かったです。

返ってきた車に乗った僕の気持ちとしては、とても嬉しいですし、何より「これからもっと大事に乗ろう」と強く思っています。

正直言って、今回の修理騒動があるまでは「車なんて移動するための手段だから」と考えていました。もちろん、今でもそう考える部分はまだまだ強いですが、それでも僕にとっては“この車”は、ある日突然「もう乗ることができません」となってしまったら、途轍もなくショックを受けるくらいには“この車”に強い愛着を感じている事がわかりました。
また、今のところ“他の車”に乗り換える事については、ほとんど考えてすらいない事がよくわかりました。

自分は、自分自身が想像していたよりも遙かに“この車”が好きなんだなあというのが見えてきました。

そうとわかれば、これからは今までと違って、「大事にこの車に乗ろう」ととても自然に考えています。

どちらにしても、そろそろ買ってから10年が経ちますし、14万キロ走っている事実は変わりません。今回、故障した部分以外にも多くの部品がダメージを被っているはずだろうと考えるのが自然でしょう。だから、「“この車”をこれからの生涯ずっと乗っていく」というのはあまり現実的な考え方ではないでしょう。きっと、いつか、近い将来なのか遠い将来なのかはわかりませんが、「“修理”よりも“買い換え”の方が現実的だよなあ」という日がやってくるのは間違いありません。

それがいつの時点でやってくるのかはわかりませんが、だとしたら、いつかやってくるその日までは、自分が思い残す事のないくらいには“この車”を大事に乗っていこうと思っています。もしもその日が来たとしても、その時には、「充分乗せてもらったよね、ありがとう」と思えるように、僕自身の気持ちの整理もしておきたいし、次の車を迎える準備も整えておきたいなあと思うんです。

この辺りは、相手が、車でも他の物でも生き物でも人でも、みんな同じなんだなあと、しみじみ感じているところです。

そんな事を考えながら、数日ぶりに乗る自分の愛車で帰宅してお酒を飲んでいたら、実家の母親からLINEが届きました。

珍しく届いたLINEだったので何だろうと読むと、実家のすぐ近所に住んでいた僕の小中学校時代の同級生が病気で亡くなったからお線香をあげにいったという内容でした。

僕自身は、その同級生とは家が近所ではありましたが、思い返してみても最後に話しをしたのは恐らく中学生の時なんじゃないかというあやふやな記憶と、もっと年端のいかない頃に近所の同級生数人でよく公園で遊んでいた記憶しか思い出せませんでした。

自分と同じ歳で、子どもの頃は一緒に遊んでいた近所の同級生が亡くなったと聞いても、遠い昔の記憶しか思い出せず、今現在どころか大人になった同級生の顔はわからないし、子どもの頃の同級生の顔しか思い浮かばないどころか、その頃の顔や雰囲気すらも曖昧になってしまっていて、実際には「悲しい」と思う事すらも出来ません。

その同級生が、あの頃からどんな風に生きてきて、どんな大人になって、何を感じて何を考えて何をしていたのかすらも何一つ知らないので、その昔は少しだけ交わっていた人生を歩んだ同じ歳の人間として「もうちょっと長生きしたかったんじゃないだろうか」とか、「もっとやりたい事があったんじゃないだろうか」とか、そんなありきたりな事を思うだけだし、「お疲れ様でした。ゆっくり休んで下さい」と心の中でつぶやくくらいしかできませんでした。

どうしたって、僕には“未来の予測”は出来ません。
超能力とか神秘の力は僕には備わっていないので、未来のことは何一つわかりません。
僕の車が明日には故障しているかもしれませんし、僕自身が事故に遭うかもしれませんし、明日の朝には目が覚めないかもしれませんし、宝くじに当たっているかもしれません(買ってないので当たらないとは思いますが)。

そんな風に“未来”の事は何一つわからないけれど、わからないからこそ、何が起きたとしても、それが例え“お別れ”だったとしても、今やれる事は出来る限りやっておけたらいいなと思うんです。

どっちにしても、やりたい事ややらなければいけない事は今の段階で山ほどあるわけなので、それを考えると今思い浮かぶ全ての事を成し遂げるにはこの人生ではちょっと足りないのかもしれないというか、何らかの明確な指標があるような事柄だけでは無くて、言うなればイデアの世界を目指す的な要素もあるかもしれないので、そもそも“到達”という事が存在しないのかもしれません。

だから、その時が来たとしても「ああ、ここで終了かあ」と思うのか、「ここまでよくやったよ」と思うのか、「何だよ、もう終わりかよ」と思うのか、どんな事を思うのかはそれも"未来予測”は出来ませんから、やっぱり、やれる事を出来る限りやっておくしかないだろうし、そう出来ていて欲しいなというのが今の時点の僕が考える自分自身に望む事なのかなあ、なんて、“その時”について今は考えています。

ひとまずは、また明日の朝も目が覚めて一日が無事に始まるように願いつつ、今日出来る事はやれたかどうかを思い返しながら布団に入ろうと思います。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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