外側と内側の境界を超えて
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「他にどんなやり方があるんですか?」
自分が考えた方策について、他者から「その方策だと、○○の理由で□□のリスクが高いように思えるので、そのリスクを減らせる方策になるとより良いのではないか」というフィードバックを受けた時に、冒頭の質問ができるというのは一種の才能なんじゃないだろうか?そんな風に思っています。
以前の僕は、冒頭のような質問が出てきた時に、「なんでもう少し自分で考えないんだろう?」なんて思っていたことがありました。
「もう少し考えてみたら、他のやり方が幾らでもあるってすぐにわかるんじゃないのかな?」なんて感想すら抱いていました。何しろ、自分からしたら“他のやり方”が既に思い浮かんでいる状況だったから。
だから、聞かれたら「こんなやり方もありますよ」なんて伝えていたわけですが、それを伝えると、その後はその“他のやり方”をすぐに採用して動き始めることに繋がりました。
全然別の人を相手に別の事象でそんな経験を何度かしてから、僕の中でこんな考えが浮かんできました。
「もしかしたら、自分は勘違いしていたかもしれない。以前は、あの質問をする人は半ば投げやりに質問をしてきていたと受け取っていたけど、実際には、自分で考えに考え抜いた結果“それ以外のやり方は無い”と結論に至ったからその方策を実施しようとしていたのかもしれない。そこに、外部の人間として“問題の外側”からの視点を最初から持った状態の僕や仲間が、客観的に“もう少し考える”をした上で“他のやり方”を考えただけの話で、“問題の内側”にいる状態の人に対してそれ以上を要求するというのはそもそもから間違えていたのかもしれず、当時者の視点からすれば“もう少し考える”というのは既にし終えた後だったのかもしれない可能性について自分が一切考慮していなかったんじゃないか?」
そう考えてみると、確かに“問題の外側”にいるのか“問題の内側”にいるのかで、同じ事象について焦点をあてた時に見えてくるモノには随分と違う意味が出てくるような気がします。
そして、更に突っ込んで考えてみると、“問題の内側”にいる人が自分自身をその問題の当時者として「自分も問題の一部である」と考えることができているかどうかで、“問題の外側”の視点が手に入るのか、それとも結局“問題の内側”にいるからこそその問題を外側から眺めることができないままになってしまうのか、そこが“その他のやり方”に辿り着けるかどうかの違いとして決まってくるのかもしれません。
だけど、冒頭の質問のように「他にどんなやり方があるんですか?」と、自分自身では考えられるところまで考えたので、もしも他にもっと良いやり方があるなら聞いてみたいという姿勢を示すことができるのであれば、例え“問題の内側”にいたとしても、その姿勢を示した瞬間に「自分も問題の一部である」と認識できた状態になるような気がしています。
そんなわけで僕には、「他にどんなやり方があるんですか?」という質問を自分自身が考え抜いた方策を全て提示し終えた後に、他者に対して投げかけることができるというのは、その人が持つとっても役に立つ才能であるはずだと思えて仕方がありません。
だから、この質問をしてもらえた時には喜び勇んで、その時考えられる限りの“他のやり方”を全力で伝えることにしています。そして、その“他のやり方”に賛同してもらえた場合には、これまた全力でサポートさせてもらうことにしています。
「大変ですけど、一緒に頑張りましょうね」と心の中でエールを送りながら。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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