見出し画像

だけどそれでもやっぱりだよね結局は

こんにちは。

株式会社プロタゴワークスあかねです。

「本当は言った方がいいんだろうけど、こんなことを言ったりやったりしたら、きっとまた周りの人達から色々と言われるかもしれないし、どう思われるかわからないよなぁ」

そんなことが頭をよぎったことは、これまでに数えきれないほどありましたし、きっとこれからも何度も何度もあるんだろうなと思っています。

僕もそうですし、僕が仕事で関わらせてもらってきた数多の人達の誰もがそう思っているんだろうなと思えるような言動がありましたし、実際に「そう思っている」という話をしてくれる人にも会いました。

そんな誰もが思うであろうことですが、それを思った後で、「じゃあ、どんな言動をするのか?」については“みんな同じ”にはなりません。

「(冒頭のようなことが)気になるから、これを言うのはやめておこう」となる人にもたくさん会ってきましたし、「(冒頭のようなことが)多少は気にはなるけど、自分にはあんまり関係ないから言っちゃおう」という人にも時々会いましたし、「(冒頭のようなことは)気にならないから、言いたいことはどんどん言わなくちゃ」という人にもまあまあ会いましたし、「(冒頭のようなことは)気になるから本当は言いたくないけど、必要だから言わなくちゃ」という人にもごくまれに会いました(もしかしたら他のパターンもあるような気もしますが、今パッと思い浮かんだのはこれくらいでした)。

そんな幾つかの行動パターンに分けられるような気がするこんなシチュエーションに直面した時にどう振舞うのかが、結構その後の“自分自身の在り方”に影響を及ぼすような気がしています。

もちろんその人の性格とか性質とか気質とかにも大きく左右されるところだとは思っていますが、「必要なことを必要な時に適切なやり方で行うことができる」というのは、どんな性格や性質や気質であろうとも人と人とが形成する組織や社会で生きていくうえで、とっても大事なことなのかもしれないなぁ、なんてことを考えたりします。もちろん、「その人のできる範囲で」というのが大前提にはなるでしょうが。

そうやって、あるシチュエーションに身を置いた時にどういう振舞いをするのかで、自分自身が認識する“自分自身”というモノ__“キャラ”と呼ばれるようなモノかもしれません__が形作られていくんじゃないかなぁなんて思うんです。

そうして、自分自身で「これが自分だ」と思い込むことを何度も繰り返していくうちに、いつの間にか固まっていった“自分自身”というモノが、「必要なことを必要な時に適切なやり方で行う」のを阻害してしまったりするのかもしれません。

もちろん冒頭のように「自分以外の他者の目を気にしてしまってできない」という部分も大きく影響してくるのは間違いありませんが、よくよく考えていくと実際には“自分以外の他者の目”を本当の意味で気にしているのであれば「必要なことを必要な時に適切なやり方で行う」ということを誰もがやっているはずです。

なぜなら、“自分以外の他者の目”を気にするのであれば、まずは誰もが一番気にするであろうはずの「気持ちよく仕事を出来る状態」にしなければいけないはずですから、そうなれば「どうしたら誰もが仕事をしやすくなるだろうか?」という“問い”が立つのがとても自然なはずなんじゃないかと思うんです。「あの人は気持ちよく仕事が出来ているかな?あっちの人はどうだろう?同僚はどうだろう?先輩は?上司は?経営者は?」なんて、誰もが組織を俯瞰して観察して、誰もが“問い”を立てて考えて、誰もが誰もの“仕事のやりやすさ”を考えて円滑にコミュニケーションを取って和やかに気配りをしながらスムーズに仕事を進められるように取り組むはずです。それが最も「“自分以外の他者の目”を気にしている」という状態なんじゃないかなと思っています。

でも、冒頭のようなことが思い浮かぶ場合は“そういうこと”ではありません。もちろん僕自身も“そういうこと”が思い浮かんでいたわけではありませんでした。

そういう時の自分を思い出してみると、「自分は“除け者”にされないだろうか?自分は攻撃をされたりしないだろうか?自分だけが不利益を被らないだろうか?」なんていうような、「自分が損をしないかどうか?」だけを心配していたんだと思います。

もっと言えば「自分が損をしてしまうような貧乏くじを引くくらいだったら、わざわざ“そんなこと”を言ったりやったりする必要なんてないんじゃないか?本来は必要なコトかもしれないけど、誰も言わないしやらないんだから、放っておいてもいいんじゃないか?」

そんなことを考えていた記憶が蘇ってきました。

だからと言って、実際に「そういう言動をすると損をする」ということが確定している状況というのも世の中にはたくさん存在してしまっていることはよく知っています。だから、決して“蛮勇”を推奨しているわけではありませんし、僕自身も“蛮勇”な振る舞いをしているつもりはありません。

ただ、「自分が損をしないかどうか?」を判断基準の軸にして自分の言動や発信を決めているんだとしたら、「そういうことが“自分自身というキャラ”をどんどん固めていってしまっているのではないか?」という自分を客観視してみたり、疑ってかかってみて、定期的に点検をするというのも必要なのかもしれないよなぁ、なんてことを自分自身に対しても思っています。

幸い、ウチの会社は仲間と常時対話が可能な環境が整っていますし、僕たちが関わらせてもらっている「一緒に仕事をさせてもらっている方々」ともいつでも対話的に関わらせてもらっているので、様々な形ではありますが、自分達の言動に対してのフィードバックをとってもたくさん受け取らせてもらうことができています。中には当然「フィードバックなんてしたことは一度も無い」と思っている方もたくさんいるとは思いますが、僕たちからするとありとあらゆる反応が自分達の“やった仕事”に対してのフィードバックだと思って有難く受け取らせてもらっています。

そういった、様々な“おかげ様”によって、自分の在り方や自分達の在り方について__それこそ一日の中で__何度も何度も見つめなおす機会が出てくるわけです。

そうして、「必要なことを必要な時に適切なやり方で行うことができる。自分達のできる範囲ではありますが。」とどうにかこうにか言えるような取り組みが出来るようにはなってきているんじゃないのかな、以前の自分達と比べたら。

なんてことを思えるようになってきています。

もちろん、こんなことを思ったとしても、大抵はかなり短期間のうちに「やっぱり、まだまだ全然足りてなかったじゃん…」となるのは、もう毎度のことですし、必ずそうなるので、今はもう天狗になったり増長したりしている暇も無くなってきました。

だから、

「本当は言った方がいいんだろうけど、こんなことを言ったりやったりしたら、きっとまた周りの人達から色々と言われるかもしれないし、どう思われるかわからないよなぁ」

なんてことを思った時には、しっかりと現実を観察して、そのうえで“目指すところ”をブレずに見定めたうえで、現状でできる限りのことを考えて、“目指すところ”にほんの少しでも近づいて行けるような策を講じて実行していくしかないわけなので、“自分自身”の在りたい姿であれば「こういう風にするだろうね」と思う言動や振る舞いをちょっとずつ進めていくしかありません。

現時点から見てみれば、どんな道のりもきっとずっと長いものになるだろうけど、どれだけ遠くて高いところに行くんだとしても、進み具合はみんな一歩ずつしか進めないわけなので、結局はその瞬間に踏み出す一歩を“目指すところ”に向かうために踏み出せるかどうかだけ。それを何度も何度も“目指すところ”に辿り着くまで「一歩を踏み出す」を続けられるかどうかだけなんじゃないかと思っています。

そのためにも“最初の一歩”を踏み出すところから始めるしかないんだよな。いつだって。どんなことだって。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

#ビジネス #仕事 #群馬 #高崎 #対話 #組織開発 #人材開発 #外部メンター #主役から主人公へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?