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焼くと固まっていくタコ焼きを食べる知らないうちに固まっていた自分

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

お昼ご飯に、家でタコ焼きを焼いて食べました。

家で使っているホットプレートは電気で加熱する調理器具です。台が熱源になっていて、その上に「鍋」や「焼き肉」や「タコ焼き」ができる数種類のプレートがセットになっていて、用途によって使い分けができるような一般的な物を使っています。もう何年も前から、それを使って家でタコ焼きを焼いています。

そんなホットプレートがあるにもかかわらず、年に数回はお店のタコ焼きを買って食べる事がありますが、やっぱりお店のタコ焼きは美味しいんです。あ、もちろん、家で焼くタコ焼きも充分美味しいんですが、美味しさの種類が違うような気がしています。

そんな美味しいタコ焼きを買って食べると、いつも決まって「もっと食べたいなあ」という欲求が湧いてきます(もちろん、これは「~という気がする」というのが後に付くだけの単なる気のせいなので、実際に「もっと食べる」という状態になると、「お腹が苦しくて、こんなに食べなければ良かった」という思ってしまうのはいつもの事)。

そんな「もっと食べたいなあ」という欲求を手軽に解消できるのが、家でのタコ焼きです。とにかく食べたい分だけ焼いて食べることができる、が可能なので、いわゆる“コスパが良い”状態だなあと思います。もちろん前提として、「家でタコ焼きをやるのは二人以上の場合に限る」というのは材料費や光熱費の問題として出てはきます。なので、家で行われるタコ焼きは家族でやるのが大前提になってくるのですが、その上での“コスパの良さ”。

今日もそうだったんですが、こうやって家でホットプレートでタコ焼きを作っていると、その昔、自分が子どもだった頃にホットプレートを使っていた記憶を思い出すことがあるんです。

その時の記憶は、「お好み焼き」「ホットケーキ」「焼き肉」のどれかを焼いていた記憶。なぜなら、当時の実家にあったホットプレートは、その名の通り、プレート=板の形状をした物で、プレートを取り外しして用途に合わせて交換するという事はできない物でした。そのホットプレートは物心ついた時にはもう使っていた記憶があるので、その当時に、「ホットプレートを用途に合わせて別形態の物に付け替える」という概念が家庭での料理に存在していたかどうか僕にはわかりませんし、ただ単に、僕の実家の経済状況によってその器具しか存在していなかっただけの可能性もあります。いずれにしても、その器具で調理する物が、僕の実家では上記の3つに限定されていました(限定と言っても規則とかではなく、ホットプレートが棚から出されて来て準備される時には、この3つのどれかの食材が既に用意されているという事です)。

これまでも特にどんな理由が当時あったのかなんて気にはしていませんが、その家で生まれ育った僕にとっては、「家で使うホットプレートとはこういう物である」という概念しか持っていませんでしたし、「ホットプレートについて考える」というタイミングが人生の中で生じた記憶がありません。そもそも、「使えるホットプレートがあって不便さを微塵も感じていないのに買い換える」という選択肢は、その当時、当然出てこなかったでしょうし、何しろホットプレート自体の使用頻度が、そこまで高いわけでもありませんでした(ここまでホットプレートの話を書いておきながら!)。

関東の片隅にある(当時の)新興住宅地で暮らす東北出身者同士の夫婦が営む家庭で、且つ、関西文化の風が吹き込んでくる隙間が少しも存在していなかった環境だったとすると、「家でタコ焼きをやる」という発想が「観念的にも物理的にも生まれる余地が無かった」であろう状況は、当然と言えば当然だったのかもしれない。

そんな事を、現在の自分の暮らしの中で、交換式のホットプレートを使ってタコ焼きを焼いていると、ふと思う事があるんです。

今でこそ「家でタコ焼きを焼いて食べる」なんて事を、こうやって書いてはいますが、これだって頻度としては、それほど高いわけではありません。今でこそ、外出の機会を減らす生活様式になっているので、それ以前と比べると「家でタコ焼きを焼いて食べる」という回数は確かに増えています。
でも、僕がこれまでの人生で「お店でタコ焼きを買って食べた回数」と「家でタコ焼きを焼いて食べた回数」を比較したとしたら、その回数はそれほど大差無いんじゃないかなと思うんです。

つまり、「そもそも、タコ焼き自体を食べている絶対数がとても少ない」という事でしょう。
「人生の中でタコ焼きを食べた回数をカウントしよう」なんて思った事自体が、恐らく僕は今日が初めてだったはずなんです。
だから、単純に「タコ焼きを食べる」という行動を幾つかのパターンにわけてみたのも恐らく今日が初めてでしょう。

「お店で買ったタコ焼きを食べた回数」とか、「家でタコ焼きを焼いて食べた回数」とか。そんな風に考えてみると、僕の人生の中では恐らく無かったんじゃないかなと思っているんですが、他の人達にはあるかもしれない「他人の家でタコ焼きを焼いてもらって食べた回数」とか。

人生の中で「タコ焼き」に触れて関わってきた機会が少ない人間が考える事のできる「タコ焼きを食べる機会」なんて、これくらいしか思いつかないわけです。もしかしたら他のパターンもあるのかもしれませんが、これが僕のタコ焼きイマジネーションの限界です。

こうやって見てみると、自分が生きてきた環境による影響ってとても大きいんだなあとあらためて思うんです。
色んなところで言われていますが、「その人が過ごしてきた“環境”が与える人生への影響度合いはとても強い」的な話って、僕のタコ焼きの話程度の「一見するとホントにどうでも良さそうなこと」についてもかなりの大きな影響を与えているわけです。

だからこそ、“環境要因”の影響力については、その環境を整える側は常に気を配っておかないといけないんでしょうし、「環境に配慮するべきである義務」という概念は絶対に必要だと、個人的には考えています。いわゆる“強者の責務”とか“ノブレスオブリージュ”的な。今だと、“『鬼滅の刃』の煉獄杏寿郎”的なとか、“『青天を衝け』の渋沢栄一”的なと言った方が伝わりやすいかもしれません。

その一方で、誰もが自分の置かれている今現在の状況や自分の価値観や考え方などについて“環境要因”の影響力は認めつつ、それを「こうなってしまったのは誰か(何か)のせいである」とか「誰か(何か)のせいでこうなってしまって自分は何て可哀想なヤツなんだ」という考えに留まり続けてしまうとしたら、それはとっても勿体ない事なんじゃ無いかなあと、個人的には考えているんです。
まあこれも色んなところで色んな人が言っているので「今更感」はとても強いんですが、僕も含めた誰であろうと、「今この瞬間より若い時は存在しないんだから」というのが前提になっています。

「そう在りたい自分の姿」とか「成し遂げたい事柄」とかがあるのであれば、自分には(と言うか、誰であっても)もう変える事は不可能である過去の出来事=“自分がこれまで過ごしてきた環境”について、思い悩んでいても、自分自身の人生の残り時間が減るだけであり、最も若いはずのこの瞬間をただ浪費してしまうだけなので、とても勿体ないし「こう在りたい」「成し遂げたい」物事に、その精神的・身体的・時間的なエネルギーを注いだら、自分にとって間違いなく「善い何か」が手に入るだろうなあと考えたりするんです。

今のところ、僕の人生の中ではこのタコ焼きの話によって何の問題も生じていないんですが(少なくとも僕はそう感じているんですが)、この「タコ焼きに対する認識」がこれから先の僕の人生の中で、「いつかどこかの誰かとの間での何らかのトラブルの火種」にならないとは断言できないわけです。「タコ焼きに対する認識」という、もしかしたら、この食文化をとても大切に考えている人や、この食習慣について多大なる思い入れがある人など(今のところこの程度しか想定できない発想の貧困さについてはご容赦ください)に出会った時、僕は何の悪気も無く自分の「タコ焼き観」について意見をした時に、それが、「タコ焼きに対する大いなる毀損」だったりする事もあるんじゃないのかなとか。そんな事を考えると、もう夜も眠れない(かもしれないけど、今のところその気配はありません)。

それに対して、何らかの対策を講じる事はできないでしょうし、そんなつもりも毛頭無いんですが、「同時代に同じ国で生まれ育った人だとしても、環境の違いで、食文化が全く違う事もある」というのは、今日書いてみた事で、今までよりも更にハッキリ見えてきたなあという実感があります。ということは、これは「食文化の違い」だけに留まるはずがない話であるのは当然すぎるほど当然でしょう。僕がまだ気が付いていないだけの環境要因による「認識の固定化」が僕の中には山ほど存在していると考えるのが、最も合理性の高い考え方でしょう。そんな自分の中の「認識の固定化」を、今日のタコ焼きの話のように、どんどん炙り出していけたら僕の中の「世の中との見えない壁」は今より低くなっていくんじゃないかなあと思ったんです。

家でタコ焼きを食べながら、こんな事を考えるとも無く考えていたら、いつの間にか食べ過ぎてしまってかなりの満腹感が、夜の9時を過ぎても続いています。もちろん晩ご飯は食べられない程度の苦しさです。

そういう色んな意味を込めて、家でやるタコ焼きは“コスパが良い”のかもしれないなあと、この時間にあらためて思っているわけです。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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