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四十九日から、漸進する。彼の死から分かること分からないことを考えるのは、実に簡単なことじゃなかった。


 noteを開始してはや2か月が経った。これまではつぶやくだけだったものの、それには治まらないような長期間考え続けたものを、記事にしようと考え続けてきた。そして書いている現在も、その考えの直中にいる。

 本テキストは某所に投稿したものの、残念ながら掲載されなかった論考である。それを読み直したが、むしろ掲載されなくて本当によかったと思えるほどの駄文であった。ゆえにそれを大幅に加筆・修正したところで、残念な文章作品となってしまっているのは否めないかと思う。それでも問い続けてきた一定の成果あるいは、暫定的な結論を示すことは必要であり意味があるはずだ。自分のための記事でもあるのだ。




 2020年7月某日、ある人がこの世を去った。私は彼をインタビューした経験や取材したことがある関係者でも、共にサーフィンを楽しんだ友達でもない。共演の思い出を語る共演者でもなく、出演作品は「ごくせん」を見たことがあるくらいで、「君に届け」は見たことあったっけなという、ファンでもない。そもそもドラマも音楽番組も見ない。彼の歌唱力や演技力を評価できる評論家でもない。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f59b90bc5b62874bc18536e

 よって彼女のように感動的で熱量のある語りではなく、自分ごととして冷静に綴るほかない。いずれにせよ、四十九日が経った今でも彼の死を悲しむことができる権利も彼の功績を褒めたたえる能力の保持者でもないのだ。


 そんな私が彼の名前を出すことはおこがましい。ここでは仮に「M君」と呼ぶことにする。M君は私と同じ年に生まれ、誕生日も近かった。早生まれなこともあり、学年は私が一つ上であった。体型もそっくりだったが、眉目秀麗さについてはノーコメントとさせていただきたい。

 先述したような彼との距離感さらにこの程度の類似性にもかかわらず、こういう言い方をしては語弊があるが、彼の死に惹かれたのである。芸能人に対して興味を持ったのでさえ、M君が初めてである。とはいえ、先の記事で批判されているようなゴシップ的興味ではない。家庭環境や人間関係に興味もない。顏もどうでもいい。
 「30才・男性」の死という「情報としての死」ではなく、また、私の前を通り過ぎる「ニュース的死」としても彼の死を扱いたくないのである。ニュース速報が入った瞬間から、亡くなって二日後も、「ツイッタートレンド」から彼の名前が消えてもなお、どうも霧消しがたき想いを持ち続けている。

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