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おはぎ婆

今も忘れない私の体験のひとつです。この出会いは、北陸で過ごした6歳くらいから数年間内に起きていたことです。久しぶりに和菓子の詰め合わせと出会って思い出したことがあるので、それを書きたいと思います。

とあるその土地には6歳になる少し前に東海地方から突然移動して、電車を乗り継ぎ、家族三人で住み始めたけれど、なぜその土地だったのかということは20年ほどしてから母に聞かされてわかったという記憶があります。その理由は今回のお話とはまた別のことになりますのでいずれまた。

私は病弱で、3歳くらいからは小児喘息を患っていました。発作は回数が多く激しく、専門医からは小学校は卒業出来ないだろうから…と両親は言われていたのだそうです。いわゆる余命宣告です。

そんな中、北陸のとある地方に仮住まいした私たち家族は、生活の形態ががらりとそれまでとは変わってしまいます。それまでの生活と変わって、朝から晩まで両親共に働きに出ていて私はひとりで留守番の毎日でした。父は少しすると遠くに仕事に行くといっていなくなり、数ヶ月に一回帰って来るというような人でした。

私は家に一人でいることが続いていました。

気がついたときには、二階の部屋に1人でいる時に「数え唄」のような唄を時々唄っていました。唄いながら両手を身体の胸のところあたりでくるくると糸巻きのように回しながらいると、ひとりのお婆ちゃんがどこからともなく現れるのです。木でできた臼(うす)と湯気の上がっている餅、あんこ、きなこ等と一緒に私の目の前まで滑るようにやって来ます。見たことも聞いたことも無いお婆ちゃんでした。

臼(うす)には、つきたて熱々のお餅が入っていて、一緒にそこにあるいくつかの大きな入れ物には、きなこ、あんこ、ごま等が入っています。私は、お婆ちゃんが「おはぎ」を作る過程のその手の中で起きていることにも興味津々でした。作業する作る手と動きがとても綺麗だったのを覚えています。


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なぜかいつもいつも出来たてほやほやのお餅なのでいったいどこで作って来ているのかな? なんて思いつつも、その出来上がった「おはぎ」を2つ3つもらって食べるのです。その出来たての美味しいこと。

私は、なんとなくこれはいつもの日常の世界で起きていることではないな、と感じていたので、誰にも話さないでいました。

そのうち「数え唄」を唄うとお婆ちゃんが来る、ということが自分の中では当たり前になっていきました。数日に一回は呼んでいました。

お婆ちゃんは、ただ作っては差し出してくれる人でした。ほとんど喋りません。何がいい? って言うくらい。そうか、って言うくらいでした。「今日は、きなこ、いっぱいね。」ってねだる私に、作りたてのあったかい「おはぎ」が黙って差し出されて、私は両手で受け取りました。

私は特に言いたいことや喋りたいことも無かったので、この静かなちょうどよい感じが心地よかったのです。ゆっくりと私が食べ終わると、お婆ちゃんは腰を上げて立ち上がり、静かに帰っていきます。帰って行くその姿を見ても、いつだって出会えるから寂しくありませんでした。

ある時、お婆ちゃんはどこに帰っていくのだろう? って思いました。それと同時にどこから来るのだろう? って思ったのです。それまで気にしたことがなかったのです。

ある時、知りたいと思ってお婆ちゃんが帰っていくのを見ていました。家の外へという感じはしていなかったのですが、お婆ちゃんが帰って行った場所は、なんと我が家の中にある階段でした。階段のちょうど真ん中あたりです。そこに行くとスーッと階段に吸収されていくようにお婆ちゃんはいなくなったのです。吸い込まれてどこかに行っちゃった! という感じでした。見ている私には何も言わず、ただ黙って帰っていきました。

やって来る時にも「数え唄」を歌いながらお婆ちゃんを意識していると、階段の真ん中からスーッと湧くようにお婆ちゃんが現れ出て、スーッと滑るように上へと上がって来るのが見えました。私がいる部屋に来るとストンと座って、いつものように作業を開始するという感じでした。

「あぁ、やっぱりお婆ちゃんは、こっちの人じゃないんだなぁ」

そう思ったのを覚えています。私は黙って一緒にいて、何ひとつ尋ねませんでした。

それ以来、私の中ではお婆ちゃんは「階段に住んでいるおはぎ婆ちゃん」になりました。自分だけのお婆ちゃんの呼び名です。

私がそれを見てしまったからといっても、お婆ちゃんは変わりなくいつもやって来て美味しい出来たての「おはぎ」を作って食べさせてくれました。何年間もの間です。

やがて少しずつ成長していった私は、他のことに気を向けることが増えていきました。少女漫画やテレビのアニメとかです。学校での出来事もそうです。クラスの中でのことなどで気持ちが忙しくなっていったのだと思います。私が「数え唄」を唄うことが極端に減っていって、やがて唄わなくなって、そんな自分のことも忘れていきました。

お婆ちゃんの「おはぎ」を食べることが無くなった私は、気がつくといつの間にか前よりも少し元気に日常を過ごしていました。長くないよって言われていた私でしたが、喘息の発作の回数が少しずつ減っていきました。その頃の喘息を患っていた人はとても強い薬を飲んでいました。目の色を見ると何を飲んでいるか一目瞭然と言われる薬で、心臓の負担がとても大きいということで後に処方されなくなった薬です。私は両足に強い浮腫の影響が出ていましたが、処方されていた薬は段々と強くない薬へと変わっていきました。私が少しずつ元気になっていくのを見て、お医者さんも驚いていました。両親も驚いていました。

随分と経ってからも「おはぎ」のことを時々思い出したりしていましたが、もう何かが同じじゃなくなっているんだよなと思う自分がいて、わざわざあの唄を唄うことも両手をくるくるすることもしなくなりました。ただお婆ちゃんが居たこと、どこからか来ていたことはどこかでずっと覚えていました。思い出しては懐かしいな、と感じていました。唄いながら両手をくるくる回すこと自体をやがて忘れていきました。


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この記事を書きながらの今日、そして今、ゆっくりと深呼吸をして、そして軽く目を閉じてみました。北陸のあの家のあの階段を思い浮かべます。

実際には、もうあの家は手離していて無くなっていますが、あの頃に住んでいた家をイメージします。玄関を開けて入り、階段の前に立ってお婆ちゃんをイメージして声をかけました。それから2階に上がっていき、奥の方の部屋に入り、いつでも苦しくなった時にもたれられるようにと高く積んであった布団の前に昔みたいに座って、階段を入口と出口にしていたお婆ちゃんに向かって言いました。

「あの時のおかげで私は今ここにいて、生きてます。たくさん食べさせてくれてありがとう。いつも居てくれてありがとう」

忘れていた質感を思い出しています。あの頃に長く住んでいたあの家と部屋と両親と暮らしと病気と階段と…、これで様々なことにちゃんとお別れすることが出来たように思います。その頃に対してあらためて今お別れするってことは、それらはこれから私の内側のものになって新たな力となるっていうことです。

人などのモノの世界に住む存在と、人以外のモノじゃない世界に住む存在との両方に、私は幼い頃から食べさせられ、育てられてきたのだなと思います。このお話のことも今でも本当のことなのだと思っています。他にもこれまでたくさんの不思議な出会いがありますが、私にとってそれはとてもリアルな交流です。

意味がさっぱりわからないままだった体験のそれがいったい何だったのか、どういうことだったのかということのいくつかを、今の私はこれまで学んできた知識と経験から、自分に対して答えることも可能になっています。

しかし何より私は「お婆ちゃん」から受け取ったたくさんのいろいろを栄養にしてその後を生きてきました。そして今日です。これからも大切な思い出のひとつです。


写真と文 sanae mizuno

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