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天川村と龍と、ルーツを求めての旅

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このトップには埋もれていた記事を再発掘掲載しています。この記事は5千文字ちょっとあります。2024/2/27追記

25年以上も前のこと。ツアーではなく自分で作る旅が好きだったのですが、奈良県天川村へと行った時のことです。白山連峰の地である北陸のとある地域から奈良県へと軽四で天川村を目指して友人と二人で運転を交代しながらの旅をした時がありました。上記の写真は石川県から見た白山連峰です。

旅の目的はいつもひとつです。自分という存在の意味を探したい、出会いたい、ということでした。

私が生まれ落ちたとされている場所は、愛媛県の松山市というところです。それは私の記憶には全くありません。生まれてしばらくするとその場所を移ったようですから、本当に生まれただけの場所だったのかもしれません。

これは中学に入る時に戸籍を見てわかったことです。そこには父の名はありませんでした。母と私の名前だけがそこにありました。そこには自分が私生児として生まれていることが記録として残っていました。

父という存在は物心ついた時にはいたし、赤ちゃんの時の写真に写っている人と々だったので、社会的には父という存在が居ないということになっているということがショックで、理解出来ずに悩んでいたこともありました。

一体自分という存在はどこから来た存在?なのかなって。

そんな戸籍にある事実を知らなかった頃の小さな私は、自分が生まれた時のエピソードを尋ねた時に大阪で生まれたのだと聞いていました。家で秋田犬を飼っていた話や、その時の写真も見たことがありました。

戸籍を見て、これは一体なぜなのか?どういうことなのかを知りたくて聞こうとした12歳の時、母が火がついたようになり、ひどく逆上して怒られたのを覚えています。

「墓場まで持っていく。聞いても答えんよ」

母の力強くきっぱりとしたその言葉を聞いた時に、どこか柔らかいものを期待していた私は、とても驚いて一気に怖くなりました。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと思って、それ以来それに触れるような話を避けるようになりました。同時に、墓場まで持っていくほどの「何か」があるのだなということを知りました。

一カ所に居続けるということが無かった家族と転々とした住まいと、そして謎の戸籍の事実と、自分の出生にはいったい何の秘密があるの? と思った私は、本当の自分を探すということに段々と向っていきました。物理的な面と心理的な面の両方の存在の証のようなものを探し求めていました。

やがて大きくなって、自分でお金を貯めて車の免許を取得し、自分で車を買った時から、車が私だけの部屋になったのを覚えています。私が私であれる場所でした。お気に入りのカセットを作っては積んで運転するのが好きでした。旅に出るのも好きでした。


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旅もゆっくりとした瞑想みたい


その頃は日本地図が好きで、普段から穴があくほど見つめていた時期でした。車にもいつも分厚いのと薄いのとを載せていて、旅に出るときにはこの地図本を開いては、距離を測ったり所要時間の目測を立てたりしていました。どこのサービスエリアに立ち寄って休憩するのかということも楽しみのひとつです。その土地その土地の特産品やその土地の水を頂きました。トラックの運転手のおじさん達にも、軽四で旅してるというところが面白がられて、聞いてもいないのに道案内してもらったり、抜け道情報を教えてくれて、よく助けてもらいました。

今の時代のように便利ではなかったので、カーナビはもちろんありません。あってもまだポケットベルの時代ですから、携帯もインターネットはありません。電話は公衆電話です。無い時代にはそれが当たり前なので、どうしていたのかというと、大きな国道や県道、舗装してある道路や細い山道など道には色々ありますが、地図本に掲載されている情報や現地の標識や案内表示、サービスエリアでの情報などを見ながら自分たちに関係ありそうなものを見つけて、そのひとつずつを選んでは進んでいくという、ちょっとした冒険のような旅でした。

乗っていた車は大きめのものから軽四まで、いろいろな車種がありましたが、その時は、ミントグリーンの三菱の軽四が相棒でしたが、走れど走れどガソリンが減らないという現象も、いつの間にか遠くに旅に出るごとに起きていました。ガソリンスタンドにまだまだ行かなくていいという状態が起きるので、交通費が安くなります。一緒に旅する友人はいつも驚いていました。ワープしちゃってるんじゃないの?なんてよく話して笑っていましたが、でもメーターはちゃんと動いているのです。しっかりと走行距離は表示されていました。

目的の奈良県の天川村へは途中から山道を進んでいきます。ところどころ一台しか通れないような狭い山道でした。ちょっと開けた場所に出た時には、空に龍が泳いでいるのが見え、それは天高く昇るように降りるように消えたり現われたりして、私たちが天河神社に着く頃にはいなくなって、そのままもう現れる事はありませんでした。

その数年後には新しい道路が出来てしまって風景も変わり、その新しい道を通って天川村へ行ったこともありますが、不便さや危険だからこそ注意しながらゆっくりと進み、出会ったならお互い譲り合いつつという風景が無くなってしまって、とても残念に思ったことを今でも覚えています。


天河神社に到着して、しばらくの時間を過ごしました。創造性ということ、自分が何かを生み出すということ。さらに自分が何者なのか、なぜ今回のような境遇なのか人生なのか、もっともっと知りたい! という強い思いがありました。兄弟姉妹も親戚もいない、借り物の家で、故郷と呼べる場所も無い、それが私の環境でした。そこから先を自分の力で作って歩いて行かねばならないだろうこれからの未来には、それがとても重要なことだと思えていました。

天河神社の中で瞑想をして五十鈴を見つめながら、その場所で感じたのは、地球の外に世界があることを見ろよ、ということでした。その時はその意味もあまりわかってはいませんでした。

その後に移動して予約している宿泊の場所へと向うために山を降りていく訳ですが、その帰り道でのこと。生まれて初めての天河さんの帰り道でのことでした。


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境目で意思を確認


私が運転していました。来た道を戻って、標識を目印に進み、ちょっと大きめの道に出て、そこを右折して緩い坂道を降りていきます。しばらく進んでいくと交差する道に出ました。一時停止します。さてと、これは左か右か?と思って標識を確認すると、先ほど通った道へと戻っていることに気が付きました。

「ここを右折して降りていくんだよね」

「あれ? どこで間違えて入っちゃったのかな?」

2人ともきっとぼうっとしていたのだろうということで、今度は間違えないように気をつけて運転していこうと、あらためて右にハンドルを切って山道を降りていきました。山の中の道はくねりくねりとしながら下へと続きます。このちょっと大きめの道を降りているのだから今度は大丈夫だねと、ゆっくりとさらに進んでいきました。

やがて分かれ道が出てきたのでブレーキを踏んで徐行しながら、次は左か右か?と思って確認しようとすると、私たちはまた同じ場所へと知らず戻っていたのです。さすがにこの時は二人で顔を見合わせてプチパニック状態になりました。

「あーしてこーしてそこを通って走っていたのだから、山の下へと続く道路に出るはずなんだから! えっ、どこで間違えた?」

友人が言いました。

「あー、またこれは、同じみたいですねぇ」

私が言いました。

その後、私たちは気持ちを立て直そうと、様々なことを確認し合います。自分たちがうっかりしただけだと言い聞かせようとしていました。

「しっかりと意識を持ってね。途中でぼうっと気を失って、うっかり違う道を選んでいるんだろうから、だからこんな風に同じところに戻ってきてしまうなんてことになっちゃってるんだから、ね。ね? 」

実際は、二人してうっかりしていたという気はありませんでした。

ちゃんと道路や曲がり角を確認して見ていたと思えていたからです。しかし現実は目の前にあって、もとの辻に戻ってきているのです。辻褄が合わないことに私たちの表面の意識は困惑していました。

さて、もう一回、帰ろう。

口に出さずにいました。二人は黙って車の中にいました。私は黙って深呼吸してから運転していました。最初に通った時から時間は経っていて、少しずつ日が暮れていきます。

もうダメだ! これはダメだ!

そう思ったのはそのしばらく後でした。また同じところに私たちは居たのです。どうやってどこを通ってなのかわかりませんが、天川村へと続く山の中を私たちはその後何度もぐるぐるし続けていました。

また抜け出れない! 

そう思いました。友人の彼女もそう感じたのでしょう。こりゃぁダメだ!と本気で私は思ったのでしょう。スイッチが入ったようになりました。

まるで何かを諦めたように、山に向って、ぐるぐるを起こしている存在というか作用とか働きというものに向って、人に向って話しかけるように声をかけていたのです。

「わかった。わかりました。私は私の道(予定しているであろう道)を歩いていきます。つないでいきます。よそには外れません。必ず。だから、帰してください。お願いします。ありがとうございます。」

私にはその頃、親から用意されていた仕事としての将来の道がありました。私の本当の将来はなんだかそれとは違う気がするという思いはありましたが、それ以外のことを選べるだけの体験や知識、知恵もありませんでした。したいことというのも見つけていなかった私は「それは嫌だ!」と表現することも出来なかったのです。心の中でぐずぐずしていました。

ですが、決めました。

何をどうしていくのかなんてわからないし、決めたと言ったからってそれがそのまま通るとは限りません。ですが、目の前で起きていることと、出会っていることと、もうこの際ちゃんと出会おう!って思ったのです。

何より日常の日々よりも今まさに目の前で起きていることに、私には確かな実感がありました。そこには普段の日常の中には無い、何か自分の内側から湧いてくるものがありました。

ほんのしばらくの間、駐めていた車を動かし始めた私は、黙って辻を右折しました。友人もずっと黙っていました。私も黙っていました。

どれほど走ったでしょうか。気が付くと随分と日が落ちてきて、片側の空が暗くなり始めていました。さらに先ほどまで見なかった町へと続く信号が見えて来ていました。何度も繰り返して見ていた先ほどまでの風景とは明らかに違っていました。

「抜け出た…」

私たちは山の下の方に着くまで、そのまま黙ったままでした。少しずつ離れていく山を振り返るように、山で起きたことを思い出していました。少しずつ遠くなっていく山を見ながら二人で顔を見合わせました。これは夢じゃ無いよねって。

大切なことは、大切にしよう、そんな話を一晩中友人と話していたように思います。いつまでも眠れない夜でした。


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縁に導かれるように一歩ずつ


旅先から家に戻ると、どこにも書いていないし資料を残してもいないのに、父は玄関先で言いました。

「天河神社に行くのはわかっとったんや。でもどうしてか止められんかった。お前は間違った。わしが悪かったんや。でも止められんかったんや。」

「わしは間違っとらん。お前はこの家の跡を継ぐのだから。そのために、たった一人の娘のお前はおるんやから。」

そう言って心臓発作を目の前で起こし倒れました。

父は、とある歴史ある大きな宗派の中で1人まるで特別な立ち位置にいました。普通のお世話役ではありませんでした。全国の御僧侶の方々と常に一緒にいました。信徒さんの葬儀には御僧侶より先に走りました。跡継ぎは重要でした。

見えないものを見る父のことはわかっていましたが、具体的過ぎるじゃないか!怖いじゃないか! と怯える自分がいたのも本当です。私は大きなお役目をしていた父こそが本当は別のところに本来の道があるような気さえしていましたが。それは後々の最後まで言いませんでした。

「お前は、東に行けよ」

「ここにおったらあかん。出て行けよ。」

心臓の難病になった父の24時間介護を10年以上していた私が30代になって、父が旅立つ少し前に私に言った言葉でした。とても穏やかでした。

「いったい、どこへ行くのよ」

何のあても無い私は、しばらく途方に暮れていました。

しかし、縁は開かれ繋がっています。私の人生が次のステップへと突然に色を変えて進み始めたのは、父を見送ってから1年と3ヶ月ほど過ぎたとある時でした。


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旅は人生の節目となる出会いが起きやすい


20代前半の私は天河神社へと行った後も、時々の旅を続けていました。やっぱりガソリンが減らない、どこまでもすいすい走って行けそう、そう思える旅でした。そんな時間を重ねていくごとに、どうにかいつかはここを飛び出そうという気持ちが段々と強くなっていったのでした。


あなただけのこの人生の物語を紐解いて歩きましょう。
昼の地球で、夜の宇宙で、丸ごと一日どうぞよい旅を。
cafe prizm sanaでした。


写真と文 sanae mizuno                       写真はイメージで、実際の現地の写真とは違っています。

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