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「小説 名娼明月」 第70話(最終回):明月の臨終

 明月の信仰は日を追うて固い。

 「もはや帰るべき古郷は、備中西河内ではない。弥陀の浄土である。頼むは、他力本願の大悲である」

 と、寝ても覚めても、念仏称名を忘れるときがない。
 この年の極月三十日、明月は廓(くるわ)の暇を偸んで、例のごとく萬行寺に詣でた。かつて観世音寺に通夜したる砌(みぎ)り、夢想の天女に授かりし、蜀江の錦の来歴を語り、これを自分に持っておっても粗末になるから当寺に奉納いたしたいという希望を、明月が述ぶれば、正海師は、これを手に取ってみて、殊の外(ことのほか)喜び、

 「これは、幾千年を経た物やら判じ難いが、稀代の重宝に相違あるまじ! これより当寺の宝物として、末永く秘蔵いたすべし」

 と云って、正海師は喜んで受納した。

 明くれば天正六年の正月となった。
 さすがに全盛を詠われし明月、この頃より気分勝れず、朝夕の食事も把(と)れぬこととなった。
 主人夫婦はもとより、朋輩女郎の心配が一通りではない。明月が、それには及ばぬと言って辞するのも諾(き)かずに、ある日、名のある医師を呼んできた。医師は静かに明月の容態を診て、

 「これは、永い間、余り心気を労したのが、病気の原(もと)である」

 と言った。そうして、

 「あまり軽くない容態であるから、油断をしてはならぬ」

 と、附け加えて言った。
 主人夫婦の明月に対する看病は、実に生みの親以上であった。夜も眠らずに、医師よ、薬よと、心遣いすれど、明月の病気は少しも怠らぬばかりか、日に増し勢いを進めて、これまで沢(つや)やかなりし肉は落ち、眼凹みて、血の色とてもない。

 「ああ、これが、このほどまで全盛を詠われし明月であるか…」

 と言って、主人夫婦は、日に幾度となく涙を落とした。
 こうして二十日余りも過ぎた。明月の病気は、いよいよ進んで、医師も眉を顰(ひそ)めた。
 明月自身でも、もはや所詮助からぬ命と観念したから、別に騒ぎもせぬ。

 「備中の国に生まれし身が、知らぬ他郷にさすらいて、旦那様ご夫婦に海山のご恩蒙(こうむ)りしばかりか、臨終(いまわ)の水さえ飲ましていただく勿体なさ。嬉しとも、ありがたしとも、言葉の上には尽くされませぬ。
 親きょうだいもなければ、まこと三界無縁の新仏(にいぼとけ)、一片のご回向を、この上ながら願いまする…」

 と言う言葉は、細くて聞き取れぬよう、明月の眼(まなこ)は、微かに潤んで、影が薄い。
 主人夫婦は、聞くに堪えかね、顔を反(そむ)けた。

 「世にも果敢なき薄命の身の末期(まつご)、今一年も経ちたらば、明月の望み叶えて、出家させ、また、庵(いおり)をも作り与えんと思いしことも、水の泡…」

 と主人が嘆けば、女房も泣く。

 二月七日、彼岸の空に帰り行く雁の声を遠く聞きながら、明月は、死後の事など、何くれと頼み置いて、眠るがごとく往生をした。
 この報(しら)せに、正海師も、眼に露を湛えて惜しんだ。
 翌日、明月の葬儀は、正海師の手によりて、殊の外丁重に、萬行寺において営まれた。
 薩摩屋の夫婦は、雨に、風に、一日も墓参りを怠らぬ。

 その六七日(むなのか)の当日のことである。夫婦が、いつものごとく相携えて墓に詣ると、不思議や、明月の墓の上に、一茎の蓮華のようなものが生えておる。
 夫婦はびっくりして、このことを正海師に告ぐれば、正海師も、首を傾(かし)げて不思議がった。人の障らぬようにと、萬行寺で気をつけておると、それより第四十九日目には、まったく花が開いて、疑いもなき、蓮華である。東風(こち)に送る香りの芳(かんば)しさ。
 この噂は、たちまちにして拡(ひろ)まって、西より東より、これを見んとて、萬行寺指して集まり来る者が毎日続いて、ついに、時の代官所の耳に達した。
 代官所から役人三人が出張してきたので、正海師は、下男大勢を指揮して、墓を掘らせてみたところが、不思議は更に不思議を加えて、その蓮華の根は、明月を埋めた棺の中にあった。
 一同ますます驚いて、棺の蓋を開けてみると、驚くべし! 蓮華は、安らかに眠りおれる明月の美しき口中から出ているのであった!
 役人も正海師も、あまりの不思議に驚き呆れて言葉もなかった。
 折から薩摩屋の夫婦も、柳町各楼の楼主らも駆けつけてきて、等しく驚き呆れ、

 「これこそ、仏果を得たる標(しるし)であろう!」

 と言って、その蓮華の花を、明月の口中から抜き取り、後を叮嚀に埋(うず)めて、墓上に、一の堂宇を設け、名を「明月地蔵」と呼んで、念入りの追祭(ついさい)を行った。
 蓮華の花は、萬行寺の宝物となった。
 六月二十四日が、この地蔵の例祭となって、今に続いて来ているとのことである。
 明月逝きて、茲(ここ)に三百三十五年。

   名 娼 明 月 (完)

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