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パンを焼く。

2015/02/28

パン屋さんは毎日パンを焼く。
同じように私は毎日何かを創る。
そこに違いはないと私は思っている。

『何やってるの?』って
たまに聞かれるので...
—『パンを焼いてます』
これが今のところ
1番しっくりくる回答です。
あ、余計( ? _ ? )ってなる??笑

私は、パンは焼けない。
そして焼きたいともあまり思わない…
でも、道を歩けば何かを見て、聞いて、
感性は動き、
そして何かを創りたくなる。


素敵な曲を聴けば胸は高鳴るし、
空を見上げればカメラを向けたくなるし、
人に触れれば何か書きたくなる。
結局、普通に生きているだけで
手を動かしたくなる理由や
瞬間が絶え間無くある。

どうやら私という生き物は、
そうせざるを得ないように
出来ているようだ。

私にとってそれは
呼吸、食、寝、修行と
同じレベルにある。

神様は至るところに
それを仕組んでいる。
(ように私には思える。)

でも私にとって表現とは、
自分の中に溜まっているものを
吐き出す手段ではないし、
"自己を表現する"ものでもない。
確かに昔はそうだったけど…
今は別に溜まっているものなんてないし 、
アピールしたい自己も別にない笑。


私が表すものは
大体いつも同じ一つのもので、
それに対して色んな形や表情があるだけだ。
(何故それなのかはわかりません)

私はそれを観て、形を与える。
日々の世界の中で、
そして世界と触れ合うことによって。
つまり私は単なる媒体のようなもの。
私はただの作業者だ。
そう、まるでパン屋さんが
毎日パンを焼くように。
修行僧がひたすら瞑想するように。

音楽をやりたい、写真が好きだ、
描くのが好きだって言うと、
じゃあアーティストになりたいの?
CD出したいの?って言われる。

アーティストになって
人に感動を与えたいとか、
勇気を与えるとか、
まぁ結果的にはそうなのかもしれないけど、

成功だとか才能だとか色々考えて、
私は何度もわからなくなった。

創作活動において、
才能があるかないかのレベルに行き着く
もっともっと前の段階で、
そういうとこで分からなくなる人は
結構多いんじゃないかな?と思う。

創作というものは、
「自分は一体何をやっているのか?」
「何故やるのか?」
そして
「好きだからやりたい」というものが

じゃあそれで社会や人と
どう関わっていけるのか、
どう役に立っていけるのか、
そういうところが測りにくい。

結局、そういうとこを
自分で創っていかないといけない。
そしてそこがないと、趣味を超えられない。

でもやっぱり、
趣味とそうじゃないのとは全然違う。

勿論、「ただ好きだからやる」ってのを
若い頃からきっぱりと
貫ける人も沢山いるのだろうけど。

会社で働くということは、
”少なくとも何かの役割を
果たしている”と思えるので
「私は働いている」という
謎の安心感(?)がある。

そういうことが
セッティングされているというのは
何だかんだで心強い。(自分さえ切り離せばw)
だから私は働いてみて、
ある意味でとても安定した。


若い時はそんなの別にいらないけど
安心の感覚は
やっぱり大事だなと思った。


誰かが私の代わりに
毎日何処かでパンを焼いてくれるから、
私は出来上がったパンを
美味しく食べればいい。

同じように私は誰かの代わりに
毎日それを観て形にするから、
それを見て忙しい日々の中から、
温かい気持ちや小さな優しさ、
愛でるものを
ちょっと思い出してもらえればいい。

そういう気持ちは
人生において大事な要素だけど、
日々の生活の中で、
何かとシュールな社会生活の中でw、

それを観るアンテナを常に持ち続けることや、
さらにそこに形を与えるってことは
一種の訓練も必要だから、
別にそこは誰かに任せればいいと思う。

それで私は一役買えるw。
私はそのアンテナを維持するために
智恵を絞ることが歓びだから。
何だって、楽しいと思ってやれる人が
それをすればいい。


何かを創ったり感じたり、
そんな余裕もなかった時、
誰かが代わりに創ってくれた曲や写真で
一時ほっこりできて、
自分の心を取り戻せた記憶がある。

それは役割として
とてもすごいことだなと思った。

だから無理してがんばる必要は全くないけど
素敵なものを創る人達、奏でる人達、
そして同じ様に創ることを愛している人達にも、
それぞれの形で素敵なものを
これからもどんどん創っていって欲しいなと思う。

『アーティスト』という職業枠(?)の中ででしか
アーティストで在れないのは勿体ない。
とても素敵な人種なのだから。

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