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フィリピンのセブに生まれた一人の少年

私は地方の観光地に生まれた。観光地といっても交通の便は悪く、シーズンでもない平日は街は閑散としている。それでも、夏休みや冬休みは多くの人で賑わう。

実家は、その街のなかでも人が盛んな地域にある。夏休み、友達の家に行くには人混みを自転車でかき分ける必要があって、人の顔を横目で見ながら進むうちに、人を観察することが好きになった。

歴史のある街ということもあり、外国の人も多かった。日本の文化や美味しいものに触れて、喜びが溢れる表情をたくさんの人がしていた。自分の生まれた故郷が日本の代表になって、他国の人に日本の良さを伝えている。それが人の喜びになる。

それだけで、国際交流をしているような気分になって、すごく嬉しかった。


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私はそんな故郷をきっかけに、外国の人の笑顔が好きになった。将来は人を笑顔にできる仕事に就きたいと漠然と思った。

紆余曲折はたくさんあった。いや、今もその最中である。当時中学生だった私はまずホテルマンを目指した。単純に外国の人をもてなせる最高峰はホテルだと思った。熱中していた陸上競技は「人を笑顔にする」という目標のために、高校までで引退すると決めた。


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高校3年生、ホテルマンを目指すためにどういう進路を辿ればいいのか分からなかった。これで最後なのだからと、引退するまでは部活に集中しようと下調べはしていなかった。そんな時、ある話が飛び込んできた。

「 ディズニーランドって、全体の8割がアルバイトなんだって 」

そこへは修学旅行を含めて2回しか行ったことがなかったが、誰もが笑顔になれるあの場所の魔法使いのような人たちが、アルバイトだということに驚いたことを、今でも覚えている。そこへ行けば、自分も「人を笑顔にする」その魔法を習うことができると思った。私は、そこでバイトをするために地元を離れ関東の大学に行くことに決めた。


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平日は学校でスポーツの持つ力について学び、土日はバイトで魔法を習う。そんな生活が始まった。学年が上がって、平日に授業を入れないようにできるまで休みはなかった。けれど、その日々は今でも人生の中で最も充実していたと思う。

魔法は少しずつ使えるようになってきた。魔法には同じものはないことを知った。ある人には喜んでもらえた声掛けは、別の人にはそうでなかったり、お年寄りや子ども、男性、女性と大別することもできず、ここに来ている一人ひとりにそれぞれの魔法を使わなければ喜んでもらえなかった。早くにこれに気づけたのも、私が人を観察することが好きだったからだと思う。

どれだけ忙しくても、どれだけ通退勤中の電車の中で泥のように眠っても(そこまで2時間もかかる所に住んでしまった!)、私は嫌になることなどなく、人をもてなすことが好きだったし、楽しむことができた。一人ひとりの特徴を掴むこともできたし、「人を笑顔にする」仕事は、自分に向いているのだと素直に嬉しかった。

外国の人へのおもてなしも、日本人でも大別できないようにそれぞれのもてなし方があるとは思っていたのだけど、そもそも外国の人をもてなす機会はほとんどなかった。私の働いていた店舗は圧倒的に日本人のお客様が多かったのだ。この場所は、正社員でお客様の前に立つことはできなかった。お客様の前に立つことには拘ったし、このままアルバイトを続けるわけにもいかなかった。そしてなにより本当に少しだけではあるのだけど、外国の人を笑顔にしたいという目標の道とは違った。

私は、心から楽しんで働ける場所を離れる決心をしなければならなかった。


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私はとても巡り合わせが良いのだと思う。目標が定まらない最中、大学でセミナーがあった。そのセミナーは卒業生による青年海外協力隊の体験記だった。スポーツの経験を基に青少年活動や、競技者育成に取り組むものだった。対象は主に途上国の子どもたちであったが、そこで映し出された子どもたちの笑顔は、故郷で見たあの笑顔に似ていた。

スポーツを社会貢献に活かすことができるのを知ったことも大きな副産物だった。おもてなしとスポーツ、私がただ二つだけ熱中できたこの二つを同じ舞台で共演させることができる。私はこの道に進むべくして、進んでいくのだと感じ取った。


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一人の少年が教えてくれたこと

そして、私はフィリピンに飛び立った。一人で行く勇気はなかったので、団体の活動に申し込んだ。フィリピンのスラム街で暮らす子どもたちに運動会を届けるという活動だ。

はじめての国。はじめての社会貢献活動。文化も言葉も知らない。そんな場所で私は誰かを笑顔にさせることはできるのだろうか。

そんな不安は全て、スポーツがふきとばした。子どもたちは遊ぶこと、運動することが好きなのは万国共通だった。走ればみんなが喜んでついてくるし、ルールの説明も遊ぶためならば熱心に聞いてくれる。今まで、座学で学んだスポーツの力を体感することができて、運動会はとても良い物だった。

けれど同時に、私の不安はとても愚かだったことも知った。


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セブはリゾート地として有名だけれど、その一面は表の顔でしかなく、その裏側にスラム街があったり、法律上、ゴミが燃やせないフィリピンでは、ゴミの山があったりする。少年たちはゴミの山の麓に住んでいる。

ゴミの山を私が登れば、笑顔でついてきてくれるから一緒に遊んでいることは分かるのだけど、スラムの子どもたちは英語が私なんかより遥かに流暢だったが、ここで暮らす少年はそれを話すことができないから、名前も分からない。


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けれど、私は少年を「助けたい」と思ってはいけないのだと思った。その少年の笑顔は、日本で暮らす私よりも遥かに美しかった。何の穢れもない、とてもとても綺麗な笑顔だったのだ。

きっと、少年と話ができたとして、私が「あなたを助けたい」といっても少年には届かないと思う。もし、私が少年だったら知らない地からやってきた大人に「助けたい」と言われても、私はこんなに純粋な笑顔を見せているのに、なにを助けたいのだろうと感じると思う。もし少年に困っていることがあったとしても、私は少年にとってあかの他人だった。

私たちは、まだ繋がっていなかった。
社会貢献は、人と人との繋がりがなければただの自己満足だ。


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ようやく私は気づいた。おもてなしと社会貢献は似ている。
そのどちらも、同じ方法が誰にでも(どこにでも)通じるものではなく、それぞれの特徴や求めているものを感じて、受益者と共に楽しむ(取り組む)ものなのだ。

共に行うものなのだから、私がおもてなしをお客様の前に立つことにこだわった様に、現場に出てそこを知らない限り社会貢献に取り組んだといえないと思う。

彼らのことを知り、共に生きていく、共に仕事をして、共に遊ぶ。彼らを助けたい!ではなく、一緒に問題に取り組む。それが社会貢献なのだと知った。


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この文章を書いている私は、その現場に立てる環境にいない。それはコロナの影響ではなくて、コロナが落ち着いたとしてもすぐに飛び立てはしないだろう。今は自分のことで精いっぱいだ。

当時の志しとは離れた生活をしているけれど、その熱意は消えてはいない。きっとまた、充電期間を得た後に彼らとともに生きていこうと思う。

私の今の夢。

あの少年と友達になることだ。

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