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雑記という名のnote

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ノンジャンルに書いている日々の雑記
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#エッセイ

ムカデ人間は繋がっているのに孤独

このところ辛いニュースが多くなっている。なかなか、そういうニュースを目の当たりにすると心を揺さぶられてしまい動揺してしまう。 だからといって何が出来るわけでもなく、ただただ思い悩むだけになるのも精神衛生上よろしくない。そんな時は思いっきり不条理で不道徳で倫理観なんて捨て去って没入できる不謹慎なホラー映画とか観るのがいい。 死というものを軽々しく扱っているもの、人を人とも思わないようなものを観ることで「こんな状況よりはマシだわ」と笑って今の世界を新鮮な気持ちで見直すことがで

「何にもしないをしている」のも大変

薬のせいなのだろうか。ここ2週間くらい思考能力が低下している。以前なら散歩しながら自由律俳句を考えたり、なにか新しい発見をしたりということがあったのに、今は“ただ”散歩している。 そういえば桜玉吉のマンガでも「たいらな気持ち」と安定剤を飲んでいる玉吉が無表情で語る場面があったが、そんな状態なんだろうか。そして一日中とても眠たい。これを「いい状態」と言うのかどうか分からないが、落ち込みは少なくなった気はする。ただ、自律神経の方は依然としてぶっ壊れているようで、気圧の変化に過敏

昼間より蝉も元気な夜だもの

またひとつ年をとった。もう「だからなんだ」という気持ちでしかないが、そう考えるよりもこの世に生まれてきたことに感謝するような気持ちを持つことのが大切なのかなぁと夜の散歩をしながら思う。 外はうだるような暑さ、なんて言葉じゃ表現しきれない昼間の気温。そこに猛烈な雷を伴うゲリラ豪雨も最近は追加されている。日の出てる時間に出歩くことが更に難しくなってしまったようだ。 しかし何時から“ゲリラ豪雨”なんて言うようになったんだろう。なんか“ゲリラ豪雨”って言い方は風情がないから昔なが

わたしは雲の中にわたしの虹を置く

先週末くらいから一気に暑さが加速して、それと共に体調崩した。この時期に体調崩すと「コロナかも?」という気にもなって、もともとの精神状態に不安が圧し掛かる。結局、熱も出ず数日外出もしないでいたら落ち着いたのだが、110日続いていたnoteの連続更新が途絶えてしまった。 日課にしていた昼間の散歩も、40℃近い気温のなかでは自殺行為でしかないので断念。全てにおいて悪循環だった。昨日の夜、久しぶりに散歩してみたが21時過ぎても暑さが和らいでいないというのはなんなのだろう。つんく♂の

抜け殻だけで静かだ

お寺が好きだ。今日も散歩をしていて辿り着いたお寺に入ってみた。都心の雑踏の中から一歩足を踏み入れると、途端に結界に守られた異空間のような静けさに包まれる。そんなお寺が好きだ。 しんと静まる境内を歩いて紫陽花を眺める。前も書いたが、本当にアマガエルを見かけない。いや、カエルがまずいない。多摩川とか荒川まで行かないと見つからないのかな。 そう思いながら墓地の方まで行くと蝉の抜け殻があった。綺麗に脱皮した抜け殻を見ながら、ふと思う。今年、蝉の鳴き声を聞いた記憶がない。散歩中はイ

地下室展示場

白い紫陽花

「空脳」を思い出して写真館

散歩の日々である。今日も散歩をした。 そして今日からJリーグが再開された。まずは開幕すら出来ていなかったJ3から始まり、夕方からはJ2が再開。来週からはとうとうJ1も再開される。 DAZNで何試合かザッピングして観ていた。サッカーのある日常、当たり前が当り前じゃなくなってしまった世の中で、少しでもそれぞれの日常が戻ることは素敵なことだと思う。 そう、素敵なことだ。なのに何故か突然、言いようのない焦燥感に駆られてしまい慌てて散歩に出た。 あまり商店街とか人混みの出来そう

東京アマガエル

今日も昼間に散歩していた。毎日、別の道をなるべく歩くようにしている。そして、道すがら紫陽花をよく見かける。 ところで紫陽花といえばアマガエルやカタツムリがセットでイメージされる。イラストとかでも描かれているように思うし、子供の頃は紫陽花の葉にはアマガエルやカタツムリがいるのが当たり前のことだった。 意識して紫陽花を見ているが、特にアマガエルを見かけない。というか、よくよく考えると東京でアマガエルを見た記憶がない。東京にアマガエルは存在しないのか? 調べてみると東京では生息

揚羽蝶と紫君子蘭

散歩中は周りの変化や発見を楽しむことを心がけるようになった。どうしても家を出る時は気持ちが沈んでおり、必然的に下を向いて歩いてしまうので、なるべく顔を上げて歩くようにしだした。 あつ森もやっているから、島クリエイトの参考になるような庭だったりガーデニングも目に入るようになって今の時期なら紫陽花が綺麗に咲いていて「あ、この紫陽花の低木の並びはいいな」みたいなことを考えられるように少しずつなっている。 今日もまた、あてもなく歩いていると目の前に揚羽蝶がふわふわと現れて、花に止

散歩もの

最近、暑くなってきているのだけど、そんな気温に反して昼間とか夕方に散歩するようになった。理由は家にいて落ち着かなくなってしまうから、よくない感情が抑え込めないから、ということなんだけど、とにかくそういう時は無理やり着替えて外に出る。 『孤独のグルメ』の久住昌之・谷口ジローコンビの『散歩もの』というマンガがある。近頃の僕の散歩のバイブルだ。仕事帰りに見知らぬ土地をぶらぶら散歩して道に迷ったりすることを楽しんでいる主人公の話である。 僕は最初、散歩コースが決まっていた。ほぼ一

春泥の子猫と片腕の招き猫

とある雑誌の特集で昔お世話になった動物病院のことを見かけた。保護猫活動もしている病院で、とても雰囲気もよく親身になって相談にも乗ってくれた。でも、ある日を境に足が遠のいてしまった。 もう6年前のことだ。夕方からディズニーにアフター6でも行くつもりで出掛けた時だったと思う。駅に向かう路地で、か細い猫の鳴き声が聞こえてきた。立ち止まりキョロキョロと辺りを見るとボロボロの小さな猫が電柱の隅にいた。 なんだかジッと見つめられ「助けて」という声が聞こえた気がして、僕らは近づいた。そ

あやうく一生懸命生きるところだった

お薬のお世話になることになった。 こういう本格的なのは初めてだ。はじめに処方された薬は一週間服用したが効果がなかった。先日、再診で話をして処方を変えて貰った。 よく効いている、気がする。ただ、物凄くぼんやりとする時間が多くなった。思考が遅く、深く考えることが出来ない。「出来ない」じゃなくて「しない」のかもしれない。そして「やれることをやろう」という気持ちだ。少しこれは前向きな気がする。「出来ないものは出来ない」そう割り切って、いま目を背けている問題とかにも向き合えると良い

永遠も半ばを過ぎて

とても憂鬱で、とてもしんどい毎日となっている。人生の分岐点なのだろうか。どうしたらいいのか、今日も明日も通院だ。 『永遠も半ばも過ぎて』とは、故中島らもの小説のタイトルである。 という書き出しのエッセイが大槻ケンヂ『いつか春の日のどっかの町へ』にある。オーケンはそこで「永遠の半分とはどれくらいだろう」「人間の一生の半分なら人生80年として折り返し地点は40歳だ」と書いている。 そして『四十にして惑わず』という孔子の言葉を引き合いに出し「孔子は何もわかっていない。40歳に