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永遠も半ばを過ぎて
とても憂鬱で、とてもしんどい毎日となっている。人生の分岐点なのだろうか。どうしたらいいのか、今日も明日も通院だ。
『永遠も半ばも過ぎて』とは、故中島らもの小説のタイトルである。
という書き出しのエッセイが大槻ケンヂ『いつか春の日のどっかの町へ』にある。オーケンはそこで「永遠の半分とはどれくらいだろう」「人間の一生の半分なら人生80年として折り返し地点は40歳だ」と書いている。
そして『四十にして惑わず』という孔子の言葉を引き合いに出し「孔子は何もわかっていない。40歳にしてわかったことは、40代は大いに悩むという厳然たる事実である」と怒っている。
40過ぎても何も出来ていない不安やこの先どうなってしまうのだろうという焦燥感。そして「本当の自分って何だろう?」と中二病そのものな病態に陥り、永遠でない人生が半ばを過ぎているという事実に愕然とするんだろうと解説している。
このサブカル系な人種は40歳を過ぎると急に惑いまくる問題というのは吉田豪の『サブカルスーパースター鬱伝』でもオーケンを筆頭に各所のサブカルスターへのインタビューでつまびらかにしている。
「不惑」なんていう言葉は幻想だ。
ただ、この「不惑」も別の説があるらしい。
「不惑」ではなく「不或」だったんじゃないかという説。
「不或」とは「区切らず」という意味で、実は孔子は「40歳にして区切らず」と説いていたんじゃないかということらしい。
40歳というと人生経験も積んで迷いも無くなり自信もついてくるかもしれないが、そういう安定にしがみつかず新しいことにチャレンジしていかないといけない。そういう教えだったんじゃないかという。
確かにこっちの説の方が現代ではしっくりくる。気がする。
永遠も半ばを過ぎて大いに惑っている僕だけど、如何ともしがたい状況で藻掻いて苦しんでいるくらいなら孔子の「不或」に従って行動するのも良いのかもしれない。
まあ、でもここで書いている分には簡単だが、そんな単純に切り替えなんて出来ないから明日も通院をするのだな。
ちなみに中島らも著『永遠も半ばを過ぎて』は映画化もされている詐欺師の話で、それはもう大変面白いので読むか観るかしてほしいオススメ作品だ。と思って映画の方の情報を調べてみたらDVD化されていないらしい。
映画は『Lie Lie Lie』というタイトルで1997年公開され豊川悦司、鈴木保奈美、佐藤浩市が主演でBonnie Pinkの素敵な主題歌が流れる名作なのよ。アマプラやネトフリにも無いし版権の所在が不明になってたりするのかな。久しぶりに観たいのにビデオ化しかされていないようで、もはやVHS再生するデッキも無いし無理じゃん。
なんだよ、もう。
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