弱聴の逃亡日記「人生の選択」

2017年11月28日 6日目 夜

辺りも暗くなってきた午後5時。
そろそろ休む場所を見つけようという頃、来た道を戻って温泉へ行くか、休む場所など当分ありそうにない山道を進み続けるかの選択を迫られ、弱聴は戻って温泉へ行くのではなく、進み続ける道を選択した。

悪い予想は当たった。果てしなく山道が続いたのだ。
日が沈んだ山道はあっという間に暗闇に包まれ、雑木林の中を分け入る国道は、外灯が無く懐中電灯無しでは歩けないほど何も見えない。
そして無謀な選択をした弱聴を嘲笑っているのかのように勾配のきつい上り坂が延々と続く。

けれど、どうしてだろう? 不思議と力がみなぎってきた。
あんなに体が重くて足が痛くてもう歩きたくないと思っていたのに、疲労感が嘘のように消え去り、体が軽くサクサクと足が進む。
きつい上り坂を物ともせず足は力強く地面を蹴り上げ、どんどん加速していく。
腹の底からはフツフツと熱が沸き上がり、背中から蒸気が立ち上りそうだ。
頭の中では「諦めるな、進め、進め!」と鼓舞する声が絶え間なく聞こえてくる。

「すごい。すごい。どうしたんだろう、私。こんな力、どこにあったの?」
自分でも恐ろしいほどこの状況に興奮していた。なんと表現したらいいか――ランナーズハイ? いや、違う。ゾーン? とも違うような…。
感じたことの無い高揚感に弱聴は楽しくなり、ブレーキを知らないスピード違反常習者よろしくスピードを飛ばす。

なんだろう、この感覚は。なんでこんなに熱くなっているのだろう。辛い道を選んだはずなのに、なんでこんなに楽しいと思えるのだろう。
そうか、自分で選んだ道だからだ。辛いとわかっていても戻る道ではなく進む道を自分自身で選んだからだ。

はっ、はっ、と息を弾ませながら、自然と口角が上がる。
「よっしゃー! やったるでー! 絶対、後悔しない! 絶対、弱音は吐かない! 絶対、この山を越えて次の町にたどり着いてみせる!」

これほどまで熱くなったことがここ数年であっただろうか?
記憶を遡ってみても思い出すのは部活や受験の記憶で、社会人になってからの記憶は一つも無い。
腹の奥底から熱くなるこの感覚を長いこと忘れていた。
どうして忘れてしまったのだろう? 歳をとったから? 感性が鈍くなったから? 冷静に対処する術を身に着けたから?
答えはわかっていた。そう、数か月前から何となく気付いていた。


学生の頃からずっと、自分は自由だと思っていた。
自分の目の前には無限の選択肢が広がっていて、それを自分の意志で選ぶ。それこそが自由の定義で、私は自分の将来を自分で選んで決めているから自分は自由だと思っていた。

でも実際には自由な選択は出来ていなかった。
無限の選択肢があるのに、世間体や利害や金銭を理由に初めから切り捨てていた選択肢がたくさんあった。
例えば、今すぐ会社を辞めて世界一周旅行に出ることも、東京オリンピックに出場するために選手を目指すことも、無限に広がる選択肢の一つのはずで、たとえその道の先が行き止まりだったとしても、一歩を踏み出すことはできるはずだ。
なのに始めから無理だと決めつけて選択肢から除外していた。
失敗するのが怖くて。貧乏になるのが嫌で。何より、世間から軽蔑されるのが怖くて。

そうしていつしか人生の選択は消去法になっていた。
世間の目や社会的体裁を保つことが最優先で自分の意志は二の次。
「今のこの状況、辛いけど、どうすればいい? 会社に抗議してみようか? そんなことできないよ、上の人に何て言われるか。いっそ転職するか? そんなことしたら周りに迷惑かけるし、別の場所でちゃんとやっていける自信も無いし…」
そうして残った選択肢が「今の場所から一歩も動かないこと」だった。

自分に「私はお金だ」と言い聞かせて自分を押し殺し、めまいや頭痛を我慢しながら仕事をし、仕事から帰るとブタみたいに食べ散らかし、便器の前に跪いてゲロを吐く――それでも残った選択肢は「ここから一歩も動かない」だった。

結局、自分の首を絞めていたのは自分だったのだ。
そのことに気付いたのは旅に出る前で、気付いていたけれど何もすることが出来なかった。
今の社会的地位を守ること、厄介なことからは逃げることに慣れきっていた私は、この問題からも逃げて、「一歩も動かない」選択肢に従うことにしたのだ。


そんな私が、今こうして胸の奥底から湧き上がる情熱を抑えきれずに、全身を駆け巡る熱い血液の流れを感じながら、息を切らし、坂道を登っている。
他でもない自分の意志が選択した攻めの一手のために。

私にも出来るんだ。消去法ではない選択が。
誰の目も、何の利害にも左右されない、自分の意志だけが決める選択が、私にも出来たじゃないか。
目頭から熱いものがこみ上げてくる。

ふと、ある曲のワンフレーズが頭に浮かんできた。
「誰のマネもすんな 君は君でいい 生きるためのレシピなんてない ないさ」
歌詞の意味を噛みしめるように声に出して歌ってみる。
乱れた呼吸で絞り出した声はか細く、しかし着実に体に沁み込んでいった。
目からは大粒の涙が溢れ出る。
「ああ、泣くなよ~。貴重な水分がもったいないじゃないか~」
弱聴は目元を何度も拭いながら坂道を駆け上がっていった。

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