差異は強みになる
大学2年生以上の留学生のクラスで、自分たちは専門以外の日本のことをあまり知らないという話になった。普段はそれぞれの学科で日本人学生と机を並べて学ぶ、中国、台湾、韓国、マレーシア、インドネシアの学習者だ。
例えば、今住んでいる町でどんな習慣や行事があるかとか、日本人が正月にどうやって家で過ごしているか(特別な料理があるのは知っているけど食べたことはない)とか、同級生がどんな教育システムでこれまで学んできているかとか。
わたしが見ている限り、日本人学生としょっちゅうじゃれ合って、わたしが知らない今どきの話題で盛り上がっている人であってもだ。
そして、このような話題のときに必ずといってもいいほど出てくるのが、「日本人の友だちと話していてもわからないことがたくさんある。文化が違うから」というフレーズ。
例えば、互いに好きなゲームの話をしていても、それが幼少期の流行りと絡んできたりすると途端にわからなくなり、それが歴史ものだったりするとより複雑さを増すらしい。
それはそうだ。何も特別なことではなく、日本人同士であっても世代間や地域差、職種の違いなどでも起こりうる。でも、彼らはもっと大きい壁、超えられない壁のように感じているようだ。
「話がわからないとき、詳しく聞かないの?」と聞くと、「聞かない。空気読めない人みたいになるし」と言う。確かに、不明なことがあるたびに確認していたら話の腰を折ることもあるだろうし、「え、そこ?」という顔をされるのが嫌だという気持ちもわかる。
「じゃ、反対にあなたたちは自分の国や地域の習慣や文化を友だちに話すことはある?」と聞くと、口をそろえて「ない」と言う。「たぶん、(日本人は)興味ないと思う」という理由だ。
これを聞いて率直に、もったいないと思った。
自分の知らない習慣なり価値観があるらしいということに気づいているのに、それを知るための一歩を踏み込めないでいる。
日本人学生は、本当に留学生の背景に興味がないのか?留学生と同じく興味はあるけれども、ただそこに踏み込むのに躊躇しているのではないか。聞いてもいいものかと迷っているということはないだろうか。
わたしたちは人と対するとき、会話をしながら無意識に共通点を探す。職業や出身地、趣味や嗜好など。何か一つでも同じものや、カテゴリーが近いものがあると「あれ、いいですよね!」と共感しあい、そうすることでぐっと距離が近づく。
留学生たちもきっと同じだと思う。共通の趣味や好きなことで盛り上がり、「同じであること」を共有する。誤解を恐れずに言うと、国籍や言葉が違うからこそ、その「同じであること」でより一層シンパシーを感じるのではないか。違うと思っていたのに同じだったね、かわらないんだね、と。
でも、親交を深めていく中で、先に書いたようなわからないことや違和感が出てくる。自分が知っている習慣や文化や歴史や常識と照らし合わせても答えが見つからないことがある。
そんなときに、「大した問題じゃないよね。わたしたち、同じだもんね」と目をそらして気づかなかったふりをして、「同じであること」を保とうとしている気がする。そして、それがどうしてもできないとき「やっぱり日本人はわからない」となってしまうのではないか。
せっかく様々な背景を持つ人が集まっているのに、同一化してしまうのはあまりにもったいない。多様化が同一化になるのは、やはり違う気がする。
それぞれの中にある、小さな差異。この差異こそが自分たちの強みであり、未来を切り開いていくイノベーションの原石になる。差異は差異。違いがあって当たり前で、違いを知ることが武器になる。
自分では当たり前だと思っていることが、他の人から見れば思いがけない発見だったりする。それを認識して表現できることは、きっと強みになる。
そんな話をした1年後、大学で留学生主催の異文化料理会(仮称)が開かれた。各国の料理を参加者で楽しむもので、料理の説明などもあったらしい。企画立案したのが受講生の一人だと聞いて泣きそうになったのはここだけの話。