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【短編小説】 精神の貴族 (4)

電話は苦手だった。顔の見えない相手と話すことが、どうしてもこわいと感じた。わたしはそのことを大真面目な顔をしてあなたに説明したのだと思う。だから(かはわからないけど)あなたはハハッと軽く笑った。あなたがそんなふうに笑ってくれたおかげで、わたしも、電話が苦手な自分自身のことを面白おかしく感じられるようになっていた。わたしもつられて笑う。

あなたと初めて出逢ったのは大学の小講義室。わたしはそこで第二外国語の講義を受けていた。第二外国語の講義はほとんどの場合二年生で修了するのだが、わたしは——物好きな学生だったのかもしれない——その言語をもっと深く勉強してみたかった。その言語を習得することが、わたしの専攻分野(経済学)の研究に好ましい影響を与えることはほとんどないだろう。けれどもわたしは、経済学の息抜きに、週に一回の第二外国語の講義をとても愉しみにしていた。

「あなたと初めて出逢ったその日、わたしは講義に初めて遅刻をしました。例の講義は毎週月曜日午後一時から始まりました。わたしはだいたいいつも、遅くても十二時にはその講義室に着いて、そこで昼食をとるようにしていました。しかしながら、その日は——わたしが初めて講義に遅刻してしまったその日——わたしはアルバイト先に呼びだされました。十一時四十五分に大学の最寄り駅に着いたちょうどそのときにわたしのスマートフォンが震えました。店長からの電話でした。わたしはためらいました。まだ電車のなかにいます、と嘘をついてしまおうかとも、一瞬わたしは考えました。しかし、ふだん電話をよこさない店長がわざわざ電話を掛けてくるのだから急用なのだろう、とわたしは直感しました。そして、電話で告げられる急用というのは往々にして悪い報せです。だからわたしは、生理的に電話を避けているのかもしれません。わたしは、スマートフォンを耳に押し当てて、はい、と応答しました。店長は用件を速やかに伝えて電話を切りました。そしてわたしは駅のホームに立ち尽くしました。

たいしたことではありません。ただ、店の鍵をわたしが持ったままで、店長が店を開けられないので鍵を持ってバイト先に至急来てほしい、と言われただけでした。わたしはトートバッグから小銭入れをとりだしてファスナーを開けました。そのなかに店の鍵が確かに入っていました。私はファスナーを閉じて、トートバッグに小銭入れをしまって大学とは違う方向へと歩き始めました。

駅から吐きだされる人の流れは大学へ向かう。流れはスムーズではない。信号が赤になるたびに止まるし、前を歩いている人のかかとを踏めば流れは滞る。大学へ向かうわたしたちは川を流れる清らかな水のようではなく、たぶんどろどろと流れるマグマみたいに大学へたどり着くのだろう。わたしはその日、そのマグマの流れからはずれてひとり、大学とは違う方向へと早足で歩いていきました。

今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。