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脚本家・演出家として.今後,より挑戦していきたいこと——「自由」を謳歌するために


公演を終えたあとにはいつもメンバーと集まって反省会を実施している。僕は、作風について反省をしたい、というかメンバーの意見を聞きたい、と思ってアジェンダに記入した。しかし、ほかにもいろいろと反省しなければならないことがいくつかあって、作風に関する僕の反省、というか相談は事前に記入したシートの都合で、最後の議題になっていた。やっと作風に関して話せる段になった頃にはあと5分でこの会議場を後にしなくてはならず、十分に話すことができなかった。帰り道に歩きながら話をさせてもらったが、もう少し真剣に話をしたいような気もしていた。夜道を歩きながら話していたせいで、僕はメンバーの表情を読みとりながら話すこともままならなかったし、全員の意見を伺うこともできなかった。あの夜、僕はひとりで滔々と喋ってしまったことを反省しているし、ひどく後悔している。

おこがましい言いかたになってしまうかもしれない。おこがましく感じられてしまったら申し訳ないのだが、こんなにも誰かのための作品をつくろうとしたのはひさしぶりだった。僕は自分がつくりたいものをつくることよりも、チームがつくりたいものをつくろうと苦心した。だからチームからのフィードバックをもっとダイレクトに聞きたかったのだと思う。



誰かのために作品をつくっている過程を通じて、感じられたのは、今まで僕がどれだけ自分のために作品をつくっていたか、ということだ。しかし、僕自身、自分のために作品をつくることは悪いことだとは今もまったく思っていない。創作は自分のためにしなければ意味がないし、自分のためにつくるからこそ芸術になるのだと思う(芸術は、芸術をつくろうとしてつくるものではなく、純粋に自分のためにつくるから結果的にそれが芸術になるのだ)。自分のためにしない創作はなんのため?……お金のため、地位のため、それも悪いことではないかもしれないが、僕はその道には進みたくない。お金は別の方法で稼ぐし、地位はとにかく面倒だ。ちゃらんぽらんでいい。いつ死んでしまうかわからないんだから。自分のために生きる。それがもっとも芸術的な生きかたなんじゃないか。

お金がなければやりたいこともやれないし、つくりたいものもつくることができない。でもお金を得ないからこそ、得られる自由もある。

そう、僕は自由だ。この自由をもっと活かす必要がある。やりたいことをやりたいように、つくりたいものをつくりたいようにつくるための「お金」は確かにないかもしれないが、「自由」が僕にはある。僕はもっと「自由」につくっていいはずだ。やれること、つくれるものを制限しようとしないで、「自由」をめいっぱいに謳歌する。例えば、『太陽と鉄と毛抜』における、ちょっと抜けてる感じが生みだすシュールさ、ギャグにもならないギャグ、天然っぽさを好きだと言ってくれる人は多かった。「コメディ」だと言ってくれる人もいたけど、僕はあまりコメディをつくっている感覚はあまりなくて、たんに「まじめにつくろうという意識」を解放しただけだった。宮澤大和からまじめさを差し引くとあのようなものが生成される。



まあ、『太陽と鉄と毛抜』ほどにまじめさを解放しないにしても、「ふざける意識」は随所に散りばめたほうが劇全体は観やすいものになる。重さと軽さのコントラストをつけていく。それが脚本家・演出家としての僕が今後、より挑戦していきたいことだ。

例えば、ネットフリックスのオリジナルコンテンツなんかは脚本の構成も演出の方法もひじょうにわかりやすく、視聴者の興奮の熱を冷まさせない。ネットフリックスを契約してからやっと1か月が経ったが、作品を見まくってはその法則(脚本の構成と演出の方法)を自分の感覚に落としこんでいっている。法則を言葉にしてみてもいいが、かならずしもそうする必要はない。大切なのは、感覚でわかること。だって、自分が作品をつくるときにもっとも頼りにしているのは自分の感覚なのだから。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。