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昨日の続きを書こうとすると,昨日の自分に続きを書かされているみたいで嫌だな,——続きを書かずにはいられない日以外は.昨日の続きには手を入れないことにしている


「時間」というものに対して強い関心をいだくようになったきっかけはなんだったのだろう。書店で偶然手に取ったオリバー・バークマン著・高橋璃子訳『限りある時間の使い方』を読んで感動した。とくに記憶に残っているのはこのシーンだ。


2014年のある冬の朝だった。ブルックリンの自宅近くの公園のベンチに座り、やり残したタスクの多さにいつも以上の不安を感じながら、ふいに気づいたのだ。
「いや、そもそもこんなの、絶対にうまくいくわけがない」
どんなに効率を上げて、どんなに自制心を駆使したところで、ゴールにはたどり着けない。どんなに時間を管理しても、タスクがゼロになることはない。なにも心配事のない平穏な状態なんて、実現できるわけがない。
頑張っても無駄だ、と気づいた瞬間、気持ちがすっと楽になった。ゴールが不可能だとわかれば、失敗した自分を責めなくてすむのだから。


このシーンをモチーフに、僕は小説のシーンを組み立てた。似たような経験があるから、感動したわけではない。だから、僕はこのシーンに共感したわけではなくて、共鳴したに過ぎないわけだ。



タスク管理ができない僕はそもそもタスクを管理するのをやめてしまった。スマートフォンとPCで同期されているメモにはつれづれな感情と思いつき、お気に入りの本や映画の一節が書き置きされているだけで、僕に直截指令を出してくることはない。

僕はメモを開いて——それを時間をかけて読みとって、やるべきことを洗い出す。例えば、このメモをもとにして小説を書こうとか、エッセーを書こうとか、だとしたらどんなエッセーになるだろう? とかを考えるのだ。

そんなことを考えている時間はとても楽しい。実際に手を動かしているわけではないので、「文章」という成果物を得られていない。けれども手を動かして「文章」をつくっているのと同じくらい——あるいはそれ以上——の楽しさを僕は感じている。



1週間のうちの最低でも5日くらいはiMacに文章を打ちこんでいる。もっとも集中できるのは午前中で、寝起きにストレッチと軽い朝食をとってから(ジムに行って体を動かすこともある)、部屋を少しだけ掃除して、コーヒーを淹れて読書をする。

準備運動代わりに読書していて気になったところを模写してから、文章を書き始める。昨日までに書いた文章はだいたいWorkFlowyに放られてある。書きかけの文章をチェックして、今日はどこに手を入れてみようかと悩む。

そろそろ書き始めたいなと思うのだが入念に悩む。やっぱり昨日の続きを書こうとすると、昨日の自分に続きを書かされているみたいで嫌だな、と思う。続きを書かずにはいられない日以外は、昨日の続きには手を入れないことにしている。

だいたい数日前に書いたものやメモを引っ張り出してきて書く。

この文章もそうやって引っ張りだしたメモを起点して書いたものだ。



この前上演したばかりの『太陽と鉄と毛抜』('23/7)は、最初小説の形式で書いてから、戯曲(台本)の形式に変換した。

なぜ僕がこんな二度手間みたいなことを好き好んでやっているのかを「条件の演劇祭 vol. 1」の打ち上げで質問していただけてひじょうに嬉しかった。

これについて語りだすと僕はとても長々と喋りだしてしまうだろうから、思いきって一言にまとめてみる。——戯曲をいきなり書き始めるよりもまずは小説として書いたほうがセリフや物語の展開に必然性を感じ取ることができるからだ。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。