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不確実と演劇


本番2日目の朝は、時間的余裕がいくらかあったので、無目的にPCのまえに座って、無目的にタイプをはじめた。

時間的余裕のなかでの、無目的な営みによって、アイデアは生成されるのだと思う。



幕が開いても、まだまだ芝居がよくなりそうな気配がそこにあるなら、手は尽くさなければならないって思います。



とりあえずタイプして生まれたアイデアを吟味し、それでも間違いないって信じられるものだけを、俳優やスタッフへ、お願いしました。

本番にいろいろなことを変えるのはリスキーではあるのだけど、本番にならないとわからないことは、とても多い。



僕は自粛の期間中に、家でずっと小説を書いていた。小説は気にいらない箇所があれば即座にじぶんの手で書きなおすことができる。

でも演劇の演出家は、あたりまえではあるのですが、そうではないのですよね。



たとえば、「ここに立っていてください」と指示されたとします。僕は指示された場所に黙って立つだろう。

けれど、それに加えて「通りすがるすべての人へ挨拶をしてください」と指示されたとしたら、どうだろう?

果たして僕は指示通りに挨拶をするでしょうか。


するかもしれないし、しないかもしれない。


指示された通り動かなければならない、とあたまではわかっていても、からだが思うように動かないことは、多々あるものです。

恥ずかしかったり、面倒くさかったり、つかれたり、理由はさまざま。



人はかならずしも指示された通りに動かなければならないわけではない。指示を曲解することも、無視することも、逸脱することもできる。

人間には、指示する自由もあれば、指示の通りにならない自由がある。

そんなあたりまえのことが、今日では忘れられてしまっているように感じるのは、僕だけでしょうか…。



「手巻き式の人間」のような、ロボットならばプログラミングの通りに動きつづけるかもしれない。でも人間はそうじゃない。

するかもしれないし、しないかもしれない。その不確実性のうちに僕たちは存在している。

演劇をつくったり、上演したりしていると、そのことを強く実感するし、同時に愛おしくさえ思えてくるのです。



2020年12月。演劇は、上演できるかもしれないし、できないかもしれないという不確実性にさらされている。

僕たちは、多くの人に支えられて、幸運にも上演することができた。この奇跡を、感謝を、噛みしめるようにして、明日も『 楽 園 迫 る 』を上演します。




今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。