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【短編小説】 メタバース 2.0

打ち上がる花火。スーパードライの空き缶をビニール袋のなかにしまって、無糖レモンサワーを出した。もうだいぶ酔いがまわっている頭で、僕はなぜだかメタバースのことを考えていた。この前に参加していたアート・フェスティバルで、急きょトークセッションが催されることになった。その打ち合わせにオンラインで参加させてほしい、と連絡したところ、先方が読み違えてトークセッション本番もオンライン参加する手筈になってしまっていたようなのだ。確かに、先方が読み違えるようなメッセージを送信してしまった僕にも落ち度はあるが、いくらメタバースとは言っても……自分の作品についてを語る/語ってもらうためのトークセッションで、ゲストはリアルに来場していて、ホストの僕がオンライン参加するっていうのは甚だ礼儀が欠けている、とは思わないか。思わないのか。メタバースだから。

僕みたいな古い価値観を持っている人間はそんなふうに考えてしまう。けれど、早くも新しい価値観にアップグレードしている人たち(僕からすればそれは少数派であるように見える)や自分よりも10歳以上若い世代とかはべつにオンラインであること/オフラインであることをいちいち気にしないのだろうか。

「展覧会のチケットの売れ行きがかんばしくないんです」

と、わたしが澁谷さんに告げたのはこの展覧会が始まる2週間くらい前のことだ。その日は澁谷さんのアトリエにお邪魔して制作の現場を取材させてもらうことになっていた。モデルの女性が、ポーズをとっている。服は着けていない。テキスタイルを何枚か手に持って、隠部や乳房を隠すとも隠さないような感じでポーズをとっている。澁谷さんは衛星のように周回しながらカメラのようなものでモデルをとらえていく。しかし、そのような時間も長くは続かなかった。わたしがかれのアトリエに到着して、入り口近くにあった適当な椅子——それに座ってから気づいたのだが、アトリエにはほかに家具は置かれていなかった。机もベッドもない。生活感がまるでない。すみのほうに寝袋が雑然とまるめられて置いてあるだけだった。腰掛けて、わたしは右脚を左脚の上にのっけて足を組んだ。右足首をくるくるとまわした。革靴の光沢を確認した。汚れはついていなかった。それからかばんからタブレットをとり出してメモをとる準備をし始めたところで、渋谷氏は「休憩にしましょう」と言った。わたしは立ちあがってかれに挨拶をしようとしたが、かれは頭を抱えて真剣に悩んでいるようだった。その様子から、撮影がうまくいっていると思うには無理があった。わたしは遠慮して持ち上げかけた腰を再び、木製の椅子に凭せ掛けた。

「よかったらどうぞ」

そう言って紅茶をサーブしてくれたのはさっきまでモデルをやっていた女性だった。手頃なテキスタイルを腰に巻いている。乳房は露わになったままだった。わたしは驚いた表情を隠しきれないまま、お礼を述べた。「どうぞお構いなく。休憩なさってください」

すばらしく、高価そうなティーカップだ。わたしはそれをしげしげと眺めていた。

「ごめんなさい。ソーサーがないんです」

「いいえ、そうではなくて。とてもうつくしい器だと思いまして」

「ですよね。この、アトリエに置いてあるものです。極端に物が少なくて——」
モデルは振り返って澁谷氏の様子を確認した。そして声をひそめるようにして続けた。
「何度来ても落ち着かない空間ですが、置かれてあるものはすべてうつくしい——というかこの空間にあるべくしてあるのだと、納得のいくものばかりです」

わたしは頷いた。

「この椅子も」とモデルの彼女は言った。

「そうですね」とわたしは座りながら、座面と背凭れを見やった。指先で軽く触れて、撫でた。

「たぶん今日はもう撮影は終わりですよ」


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